Saturday, July 10, 2004

○こころの星空≠科学の星?

○こころの星空≠科学の星?

日本科学未来館に常設となるMEGASTAR-?cosmos「新しい眺め」プレス内覧会にお招きいただき、7/9の夕刻、お台場にお伺いした。「たいへんご無沙汰しております!」と久しぶりにご挨拶した大平さんも毛利館長も、いよいよこの日を迎えられ、晴れやかな表情でいらした。7/11から公開される。

http://www.megastar-net.com/
欧州宇宙機関(ESA)のヒッパルコス衛星による観測データ等をもとに、肉眼では見えないとされる12
等星までの星を大平さん独自のプラネタリウム制作技術を国立天文台と日本科学未来館とサイエンティフィックつくばのコラボレーションで実現。その星数、500万という破格の恒星数がプロットされたこのプラネタリウムは、現在、ギネス・ワールド・レコードに申請中なのだそうだ。

「新しい眺め」というプログラムタイトルに惹かれた。

いままでにない未知なるものに出逢うという体験は、その人の人生の根本を変容させる力をもつ場合がある。宇宙と人をつなぐ「新しい眺め」とは、どのようなものなのか?参考資料を見ると、プログラムシナリオには次のように描かれている。

 - 人は、なぜ、夜空を見上げるのだろう?
 - 息をのむ「天の川」の眺めから、その先の宇宙へ
 - 国立天文台チームによる、宇宙の大規模構造のCG映像
 - 観客と星空と宇宙をつなぐ、体験型サウンドスケープ
 - そして、それぞれの「新しい眺め」

いくつものかつてない眺めを体験した後に、毛利さんが二度のミッションでスペースシャトルから宇宙を眺めたときに感じた、きわめて個人的な、しかし普遍的なメッセージが投げかけられるとある。そういえば、毛利さんが2度目のシャトルミッションを終えられて帰国された時の、帰国報告会で、私は司会進行を務めさせていただいたのだった。その時、毛利さんが控え室で、こっそり語ってくださったことが、何より印象的だった。「やっぱりね、幾度も宇宙を眺めながら考えたけれど、僕達人類以外の生命体は、必ず他に存在すると思うよ。」と。数多の星をその漆黒の空間に認め、実感されたそうである。2000年の科学未来館館長として、語りかけられるのだろう?

以前から、国立天文台「4次元デジタル宇宙プロジェクト」には、とても興味があった。立体視と時間変化で宇宙の全貌を明らかにするという壮大なプロジェクトで、宇宙の大規模構造の可視化に関しては、現在進んでいる世界最大の宇宙地図製作計画「スローン・デジタル・スカイ・サーベイ」のデータをいち早く取り入れているものだという。

http://yso.mtk.nao.ac.jp/~4d2u/

最新の観測データに基づくコンテンツコラボレーションで、宇宙の大規模構造をフルCGで眼前に展開されたその宇宙の壮大な扇が裏表に広がるような美しさには、詩的なイマジネーションが広がった。現在、最先端の観測は、星だけではなく、20億光年先の銀河の位置までも正確に特定しつつあるという。宇宙には、私達が属する銀河系のような銀河が無数にある。それらが、何億光年にもわたって広がる巨大な構造を成しているということを、あのようなサイエンティフィックなアプローチで忠実に展開していただくと、私達の存在そのものに対する真理究明の姿勢に、極めて厳粛な気持ちが立ち上がる。

明らかに、私達の存在、地球そのもの存在は、宇宙の浜辺の真砂のたった一粒なのである。
 
上映が終わって、質議応答の時間になった。
月刊天文の青木満さんが、即座に手をあげられて熱意と実感こもる質問をされた。「500万個の恒星によるこのコスモスは、460万個の星を構成するMEGASTAR-?の前機フエニックス・ミネルバよりも、星の奥行き感が感じられないのですが、なぜですか?天の川が平坦になってしまっているように見えるのですが。」ずばりとした質問だった。青木さんは、もともとプラネタリウムの詳細な解説員をしていらした方だ。世界一のプラネタリウムと標榜されるそのMEGASTARの進化を、初期段階から静かにずっと追って、見守ってきている目利きである。その日も、双眼鏡でミルキーウエイをつぶさに見守った観察眼からの率直な質問であったかと感じ入った。

大平さんの回答はこのようなものだった。「そのようなことは無いとは思います。が、ただ、直径25mのドームを最適と想定するMEGASTARに、このドームシアターガイアは少し小振りでスペース的な奥行き感がなのかもしれません。」

確かに私も、今は無き渋谷の五島プラネタリウムドーム(直径20m)に広がるMEGASTAR-? Phoenixの星空を見た時の空間の広がりをここに重ね合わせてしまうと、直径15.24mのかわいいガイアドームに感じられるもの、そこで求めたものは、まったく異なる質のものであるなあと感じていた。

その後、毛利館長の意見が重ねられた。「本物とは何でしょうか?星の奥行き感ということについて、私達は科学的な視点をもつべきでしょう。ここに展開された星は、私がスペースシャトルから見た星空に最も近いものが再現されています。科学者は、そのような実際のリアリティに迫ってゆくものなのです。科学的に本物に近付けるということは、再現性があるもの、客観的なものなのです。奥行き感などの誇張はありえません。本物をめざします。」

・・・またもや厳然とした事実に気づかされる瞬間であった。

ご縁あって、私自身もMEGASTARのさまざまな映像を幾度も堪能する機会に与っている。正直に振り返ると、一番最初に出逢った、美しいメタリックブルーのMEGASTAR1号機の150万個の星輝く空間が忘れられない。その時の、これまでのプラネタリウムの概念が根底から覆されて、人の手によって、このような天空の再現がなされるのかと、深く感動した。星ひとつひとつを追いかけてみても、その奥にもまた星が輝き、天の川にいたっては、無数の星星の連なりが降ってきそうだ。

その数、460万個になり500万個になった時に、なぜ、その差し出されるリアリティに対する感動がもたらされないのだろう?

それよりも、先週出張していたカウアイの、雨あがりの雲間にのぞく一点のかすかなふるえるような星の輝きに心奪われる方が、深く心に刻まれる感動となって残る。

なにより、ある現象に接する初回の感動という<一回性>は、決して繰り返すことのできないものだ。500万個の星の驚異にせまる現象をはじめて見た人にとっては、そこから立ち上がる感動があるのかと思う。学習は最初の思いきったインパクトが肝心なのだ。

更には、実際、眼にみえていないものの中にこそ、私達は何かを作り上げてしまうという、脳の中のシステムが与えられているのではないか?実際、そこに眼や耳で認知できないもののなかにこそ、そのような何もない空(くう)のなかにこそ、<想像力>は高まり、その奥行きを脳内で生成してゆくのではないかしら。

その意味で、どんどんあるべき星をプロットしてゆく500万個の星は、それまでのものの空(くう)を埋め尽くしてゆくことによって、はるかに、奥行き感を異ならせてゆくことがあるのではないかと思う。一連の星数現象が教えてくれる重大なこころの現象の差異だと思う。

日本の<想像力>的であり<創造力>的なものなのかもしれないが、もともと日本の神々への思想根源には、<空(うつ)なるもの>にこそ、<満ちる気>が宿るという考え方があり、神様を、そのままの姿で眼にはみえるものとはしない、目にみえない風や気配にこそ存在を感じ取ってきた経緯がある。西行が伊勢の皇大神宮の白い帳の前にたたずんで心動かしてうみだしたであろう句にも、日本の<認知力>とでもいうべき証しが残されている。キリスト信仰に篤い西洋科学とは異なる何かがそこに潜んでいる。

なにごとの おわしますかはしらねども かたじけなさに なみだこぼるる  西行法師

ふっと切実に思った。

情報がたくさん与えられることのなかに見えにくくなくなってしまうもの。与えられ過ぎてしまうことで埋没してしまい損なわれてしまうもの。それらから、奪われてしまう正直で自由闊達な<想像力>や<創造力>の損失に、私達人間は、充分用心しなくてはならない。殊の外、現代では、こころのたたずまいを正して、それが何であるか、何のために生み出されているものなのかを、耳目のみならず五感とこころの第六感を澄ましてみる必要がありそうだ。また、情報の差出し方にも、善良な倫理に支えられた真の知性と感性が求められる。そのためには<真の品性>が求められる時代を迎えなくてはならないことだ。

ひたすら空(そら)を眺めて、空(くう)を思い、新しい展望をのぞむ。

そのためには、ほんとうに美しいもの・ほんとうにあるべき姿に接するというような、私達に所与される神々しい体験と、どのように接するか、そして、それは、どのように語り継いでゆけるのかということを、日本人として黙考してみたいと思うことだ・.・.・∞


7/10 11:11

Friday, July 09, 2004

○ふっと<切実>ということを考えてみた。

○ふっと<切実>ということを考えてみた。

その字の如く、実を切り分けるということから発想するならば<片割れ>を実感するようなことかもしれない。

認知科学の世界では、自らが不足のものに気づくことであるとか、今、目の前に無いものに気づく能力の方が、今、目の前に実在するものへの認知よりも、はるかに難しいのだそうだ。

今、自分のなかに、ぽっかりとした空虚なものを感じさせるものを<想像>する力-Imagination-のことや、<創造>する力-Creation-の原動力のことを考えてみる。

自らの半分と、あるべきもう片方の半分が合一する時、自分だけでは叶わない存在の儚さに気づく。そして、そのもう片方の存在に、はじめて<切実>を実感する。

<愛する>ということは、そのようなことから無意識に動きはじめる。
愛するものへの想いは<切実>だ。
ポイントは、何を・なぜ・どのように・愛するかということが必要だと思うけれど。

<創造>ということにおける<愛>は、すこぶる原動力になる。
仕事においても、人間関係においても、何かに寄り添うということで、そこに自らの存在の意義を確かめることができるということ。けれども、人は何かに寄り添い、何かのフィードバックを通じてこそ、人は自己撞着を回避して世界に自らを放下できるのであって、偏愛に、救済は存在しない。<求愛>は、合一を目指して、自らの<片割れ>を求める生命の<切実>な行為なのだと思い返す。それは、種の保存という合理的目的よりも、もう少し、自己の存在確認のための崇高な精神的営為のように思えるのだけれど。

ウロボロスは、ギリシャ語に由来する自分の尾を噛んで円形をなす蛇の姿だ。でも、自らで自らを完結することは不可能ではないか。創造・展開・完成・救済の輪を示すのに使用される、その象徴でさえ、終末が発端に帰る円運動、たとえば永劫回帰や、陰と陽のような反対物の一致などを通じて、世界創造が全にして一であることを示す象徴図なのだから、それを見ている神様という他者の視点が存在している。自らだけでは、その姿を見ることができない。映し鏡として自らが見ることのできない宇宙の万物が回帰する<想像力>を思う。人類は、その存在において、自らの外に対峙する宇宙という存在への逞しい想像力を付与されたことによって、救済を得ているように思う。それは、そもそもは自らを包み愛してくれる存在への肯定的祈りに満ちた<想像力>から<創造>されたからこその救済でもある。

<想像力>と<創造力>がそのまままっすぐだった子供の頃、そういえば、いつもそこにいない大好きな人のことや大好きな場所、大好きな小さなものたちへの愛惜しさがいつも寄り添っていたような記憶があるでいっぱいになっていたような気がする。それは、小さな子供のこころにあって、もしも、それらがこの世に存在しなかったなら・・・という、言葉にはならないけれど原初的な底抜けの喪失感が計算なくあったように思う。その、とても<切実>なかけがえのない想いを抱えていたちいさな時分の自分を思い出し、ちょっと胸がきゅんとする。<肯定的想像>の力なくしては、生命力は高まらない。私達、大人は、そんな子供ごころを、その頃、ちっとも気になんかとめなくなってはいないか。次世代の子ども達に贈る、豊かな未来という<肯定的想像>力を今、大人になった私は、そのようなことを振り返るにつけ、大人になっても、そのような子供ごころを無視することなく、対峙できるものでありたい、と切に思ったりする。

今、あなたに寄り添う<片割れ>は、誰ですか?どこですか?何ですか?
思うことで、豊かな心があたたまり、何かを愛したい気持ちにかられることができますか?

それは、日常さまざまな身の回りの小さく細かなものたちからも、出逢う多様な人々からもフィードバックを受けているはずなのだから、あわただしさのなかで、もしくは、大きなものを見据えすぎてしまって、目の前にあるはずのものさえ、そのような大切なものものたちさえ、看過してしまうようになったなら、不足ばかりで割れ目が生じるはず。とても<切実>。

7/9 11:23

Thursday, July 08, 2004

○<身体>に刻まれた記憶は、いつでもその時分の<感覚>を取り戻せるものである。

○<身体>に刻まれた記憶は、いつでもその時分の<感覚>を取り戻せるものである。

思えば、21世紀にはいって数年を経ている。
何か、新世紀的なことはあるのかしらと、その動向を黙考してみる。

子供の頃、「大きくなって、20世紀から21世紀に時代がかわる、その瞬間、自分は何をしているのだろう?きっと、今とは想像もつかないような世界がひろがっているのにちがいないなあ。」と、よくあてどもない夢想にふけったものだ。その時、きっと、とても何か特別なことがおとづれてくるような気がしていたように思う。

実際、その世紀の晦日の夜、私は、『編集学校』という情報編集の技法をITネットワーク上の教室で学び合うネット上に繰り広げられる教室とアクセスしていた。その学校では、二年間、師範代・師範をつとめさせていただいた。夜な夜な、愛機Macのキーボードで文字を編む。AirやH"で、どこでもワイアレスアクセス。そもそも、携帯電話で親しい人といつでもどこでも交えることができる。
確かに、子供の時には想像もつかなかった環境。これが当面の21世紀的環境なのかもしれない。でも、どのようにそれを認知して活用できているのかしら。

その『編集学校』では、<自分も世界も編集できる>と学んだ。ネットワークとマルチメディアは、確かに「編集」の隠された力を呼び起こしてくれるツールだと実感した。「編集」とは脳と心の最も深い秘密に迫る存在論的な視点でもあるということを教わり、「関係の発見」と「方法の自由」を与えていただいた。いまなお、懐かしくもありがたく振り返る。

http://www.eel.co.jp/06_editschool/

『六本木拈華美翔庵』という名の教室を、13ヶ月、無常迅速に駆け抜けた。指南依頼をいただいて、私も学ばせていただける好機と考え、気軽にお引き受けしたが、教室を開けてみると、なんと15名ほどの生徒さんがいらして、日々お預かりした稽古課題を教室に送信すると、日々、その回答が次々に寄せられて、その回答ひとつひとつに情報編集稽古をつけて返信するというハンドメイドなe-ラーニング編集数寄システムが敷かれているのだった。日々の稽古課題配信とその回答指南の寄せては返すやりとりは、貴重で得難くも、限り無く時間勝負・知恵勝負の出来事であった。結局、その一年と一ヶ月、ほぼ連続平均睡眠時間2時間という状況で、日々修行にのぞむこととなった。そして、そのような限界技は、実際、なんとかその気になればできるのだと、身をもって、自分の限りのゆらぎを知った。

ナポレオンは、平均睡眠時間が4時間だったというけれど、それほどに眠れるのであればじゅうぶんではないかしらと、日々山積する日常仕事に追われる中にあって、稽古条々。日々のぞんでゆくうちに、まさしく、常ならぬ状況とあいなり、それはもう、ある種の意識の際限を辿るような宗教体験にも近いものに深化した。

とりわけ、一番の収穫は、そのような限界状況に自らの身体を置いてみると、一般的な生活の中で、日頃、当然のように了解したつもりになっている「ここまで」とか「これはむり」とか、「こうにきまっている」というような一般概念として自らの脳の働きから来るはずの認知システムが、すっかり組み変わってしまったことだった。深夜から明け方にかけての、教室内を往き交う知性と感性に満ちた情報の波の打ち寄せに、なにより時間と空間のゆらぎが生じる。

<時間の隙間>・<時間の伸縮>というのか、<空間の並在>というのか。捻られた相対的な時空間に体験的に没入できる至高の体験は、やはり、知を生み出し感じあう、脳と心の<快感>にあったのだと確かに振り返る。日々寄せられる回答にも、また、送信してきた人それぞれの脳と心が反映されていることを感得できる。こちらとそちらの共感が交わることにより、その確かなリアルさが、過去入力という時間を引き寄せ、離れているはずの空間も眼前に手を伸ばせば届くかのように近しく<いま、ここに>共存している実感を得る。

これを<仮想>と指してよいのかしら。
その望ましい<没入>という時間は、長くでも短くでもなく、深さや浅さでもなく、言葉ではけっして定義できないし、何かで計量できかねるもののように思える。何か、新世紀の新たな言語が必要な気もする。

その日々のことは、4年を経た今でも、つい昨日のことのように、全ての身体感覚が呼び起こされる。他者の知と心に接する際の姿勢というのか、たたずまいは、ある種全身をかけて祈るようなものに近いのではないか。IT環境を通じての情報コミュニケーションは、ともすると、身体性というものは、伴いにくいように思えるが、そのようなことはない。徹底して、現代の私達は、知と心の交流のみならず、身体性を通じて生命力が高められるような姿勢が必要だ。筋を正してのぞめば、キーボードを入力する手先だけではない、全身体感覚を伴わせて身体に刻まれるような情報交感が叶うものであるし、また、生命の記憶の観点からすれば、そう目指すべきなのではないかしらと考えたりする。ひとつことを発端にしても、そこに多様な世界観への<想像力><創造力>の際限のひろがりが、実に問われる時代なのだと思う。それは、めくるめく絵巻物語りのように。

その時の拙文が出てきたので、ここに刻んでおきたいと思う。
5年前の私が、当時、そのようなことを思っていたのだったと、今、振り返る。
果たして、20世紀から21世紀の掛け橋を渡ったはずの、今の私に、5年前の自ずからの何の進歩がみとめられよう?何とも日々の限りのなかにあって、<切実>に過去・現在が往き交い、心身共に<切羽>詰まる思いがする。

◆六本木拈華美翔庵教室 ◇薄羽美江  <共に、翔々出遊いたしましょう>

●はじめまして、六本木拈華美翔庵教室・師範代をつとめます薄羽美江でございます。編集学校はまさしく数々の情報編集稽古が寄せては返す数寄空間。日々深夜、眠る時間を惜しむかのように編まれて集まるエディットコミュニケーションが交流盛んです。そもそもコミュニケーションの語源は、ラテン語にて『共有する』。当庵に遊学する方々同志、共有・共振・響心する宇(空間)宙(時間)が日々着々と膨張しています。しかもそれは進度・深度を増して創発的・加速的に!
 
●当庵はその名を禅宗で喧伝する説話『拈華微笑(ねんげみしょう)』に因みます。即ち<以心伝心><教外別伝>。お釈迦さまが微笑んで蓮の華をそっと拈られたその瞬間の悟りのように『語法(ことば)』を『悟法(さとり)』へ。然れば多様化・複雑化する高度情報社会の打ち寄せる高波をも遊々とのりこえる『護法(おまもり)』にまで編集技法を高めてゆけますようにと一念発起!

●さても究めて美しい『知の編集術』で羽をひろげてメタモルフォーゼ。編集軸を自在に遊ばせ来たる世紀へ翔々出遊。『拈華美翔』の由来です。当拈華美翔庵では暦とともに21世紀を迎えるまでの日々をカウントダウン。20世紀の縁側で編集稽古に励む皆様は 内外ミーム(情報遺伝子)を組み替え自由。いよいよ世紀を越えて美翔あそばせ!

●新世紀のおとづれとともに、ひそむ『語法』『情法』を<ひもとく・よみとく・かくとく>する。自分が拡がり世界が動けば必ずや多様で一途な人生脚本の編集達人になれるはず。編集学校にはより豊かな人生をこころゆくまで味わい楽しむためのかつてどこにもなかった秘技・秘法が満載です。それはINFORMATION TECHNOLOGY<情報技術>を確かなINTELLIGENT TEC.<聡明な知の技法>へといざなう拈華美翔・.・.・・.・.・∞

7/8  11:11

Wednesday, July 07, 2004

みちあふち七夕の夜。

○2004年7月7日。みちあふち七夕の夜。

5年前に主宰していた『匙塾』でひとかたならぬお世話になった松岡正剛さんの『千夜千冊』は、4度目の七夕を迎えたという。そして、その松岡さんにして千日回峰であるとされた、いよいよ結びの1000冊目が、今夕、刻まれた。結びの一冊に何を選ばれるのかということは、連日連夜、ひそひそと噂話も飛び交っていたけれど、きっとご自身の著作に関わる何かを挙げられるのではないかしらと感じていた。

やはり、そうだった。

そして、それは、『外は、良寛。』
世界の内外-現象のおもむきをつぶさに綴られた良寛をして世界を解かれた足跡だった。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1000.html

『外は、良寛。』は、松岡さんの夥しい著書・執筆のなかでも、とりわけ異質の、やわらかな筆感を思わせてくださる一冊だ。語り口調のなかに、良寛さんの世界を引き受ける寛容さ(トレランス)にあふれた含みと蓄えがときめき、やさしさとやわらかなまなざしが豊饒なる、そのトーンに惹き込まれる。

スタートされた第一冊目が、「雪は天から送られた手紙である・・」の中谷宇吉郎の『雪』であったことと、ゴールとなる第千冊目が、「淡雪の中にたちこめたる三千大千世界(みちあふち) またその中にあわ雪ぞ降る」と〆括られた『雪』の対置に、心踊った。

実は、『外は、良寛。』を拝読したのは、8年前ぐらいだったかと思う。以来、頭のなかで(心のなかでかもしれない)認識する世界観の中に「三千大千世界(みちあふち)」が、時めき現出するようになっていた。過日も、三十三間堂の「十一面千手千眼観世音」1001体が燻し黄金燦然と居並ばれる空間に、その良寛世界の無限の慈悲を重ねて望憶したものだった。

松岡さんは、千冊を結ばれた番外に、独自の『尾学』をのぞむ1001冊目を加筆されるご意向があるそうだけれど、案外、実は、その三十三間堂宇宙と結ばれていらっしゃるのかしらなどとも想う。

私が、日々仕事を編み、起居する六本木鳥居坂MAJESTYの屋上からも、年に数回、美しい星空が広がることがある。(こんな都心で、そのようなことが・・・と、信じられないかもしれないけれど、ほんとうなのです。)そのような夜には、屋上にスリーピング・バッグをもってあがり、一晩中、空を見上げている。天空の星空が手前にひろがっていて、また、そのむこうにも星空がひろがり、そのむこうにも星空が・・・。そのような不可思議なディメンション・スポットにハマる極上の夜空のみちあふち星々が、心にともる無数の灯火のように、実は東京の直中にも、ときおり、立ちあらわれる。

ふと、思い立って、屋上に出かけた。例年、七夕さんの夜は、曇り空というおきまりごとで、なかなか織姫∞彦星は、逢瀬がかなわないというさだめだけれど、何と今年はちがう!まず、夏の第三角形の星々が、頭上の真上に正しく煌めいて配置されて架かっているではないですか。そして、美しい天の川がよこたわる天空を、こころの眼で探るならば、そこには、美しい邂逅も待っているものだ。

そのような訳で、、時機がきたように思うもので、本日から、日々、このようなよしなしごとを、編んでみたいと想います。日々、出逢うことの叶う、真なるもの・善くあるもの・美しきものに触れ、こころの手入れをしながらひろがる幾千もの煌めきを愛でることができますように・.・.・.・.・∞

7/7 10:01