○こころの星空≠科学の星?
○こころの星空≠科学の星?
日本科学未来館に常設となるMEGASTAR-?cosmos「新しい眺め」プレス内覧会にお招きいただき、7/9の夕刻、お台場にお伺いした。「たいへんご無沙汰しております!」と久しぶりにご挨拶した大平さんも毛利館長も、いよいよこの日を迎えられ、晴れやかな表情でいらした。7/11から公開される。
http://www.megastar-net.com/
欧州宇宙機関(ESA)のヒッパルコス衛星による観測データ等をもとに、肉眼では見えないとされる12
等星までの星を大平さん独自のプラネタリウム制作技術を国立天文台と日本科学未来館とサイエンティフィックつくばのコラボレーションで実現。その星数、500万という破格の恒星数がプロットされたこのプラネタリウムは、現在、ギネス・ワールド・レコードに申請中なのだそうだ。
「新しい眺め」というプログラムタイトルに惹かれた。
いままでにない未知なるものに出逢うという体験は、その人の人生の根本を変容させる力をもつ場合がある。宇宙と人をつなぐ「新しい眺め」とは、どのようなものなのか?参考資料を見ると、プログラムシナリオには次のように描かれている。
- 人は、なぜ、夜空を見上げるのだろう?
- 息をのむ「天の川」の眺めから、その先の宇宙へ
- 国立天文台チームによる、宇宙の大規模構造のCG映像
- 観客と星空と宇宙をつなぐ、体験型サウンドスケープ
- そして、それぞれの「新しい眺め」
いくつものかつてない眺めを体験した後に、毛利さんが二度のミッションでスペースシャトルから宇宙を眺めたときに感じた、きわめて個人的な、しかし普遍的なメッセージが投げかけられるとある。そういえば、毛利さんが2度目のシャトルミッションを終えられて帰国された時の、帰国報告会で、私は司会進行を務めさせていただいたのだった。その時、毛利さんが控え室で、こっそり語ってくださったことが、何より印象的だった。「やっぱりね、幾度も宇宙を眺めながら考えたけれど、僕達人類以外の生命体は、必ず他に存在すると思うよ。」と。数多の星をその漆黒の空間に認め、実感されたそうである。2000年の科学未来館館長として、語りかけられるのだろう?
以前から、国立天文台「4次元デジタル宇宙プロジェクト」には、とても興味があった。立体視と時間変化で宇宙の全貌を明らかにするという壮大なプロジェクトで、宇宙の大規模構造の可視化に関しては、現在進んでいる世界最大の宇宙地図製作計画「スローン・デジタル・スカイ・サーベイ」のデータをいち早く取り入れているものだという。
http://yso.mtk.nao.ac.jp/~4d2u/
最新の観測データに基づくコンテンツコラボレーションで、宇宙の大規模構造をフルCGで眼前に展開されたその宇宙の壮大な扇が裏表に広がるような美しさには、詩的なイマジネーションが広がった。現在、最先端の観測は、星だけではなく、20億光年先の銀河の位置までも正確に特定しつつあるという。宇宙には、私達が属する銀河系のような銀河が無数にある。それらが、何億光年にもわたって広がる巨大な構造を成しているということを、あのようなサイエンティフィックなアプローチで忠実に展開していただくと、私達の存在そのものに対する真理究明の姿勢に、極めて厳粛な気持ちが立ち上がる。
明らかに、私達の存在、地球そのもの存在は、宇宙の浜辺の真砂のたった一粒なのである。
上映が終わって、質議応答の時間になった。
月刊天文の青木満さんが、即座に手をあげられて熱意と実感こもる質問をされた。「500万個の恒星によるこのコスモスは、460万個の星を構成するMEGASTAR-?の前機フエニックス・ミネルバよりも、星の奥行き感が感じられないのですが、なぜですか?天の川が平坦になってしまっているように見えるのですが。」ずばりとした質問だった。青木さんは、もともとプラネタリウムの詳細な解説員をしていらした方だ。世界一のプラネタリウムと標榜されるそのMEGASTARの進化を、初期段階から静かにずっと追って、見守ってきている目利きである。その日も、双眼鏡でミルキーウエイをつぶさに見守った観察眼からの率直な質問であったかと感じ入った。
大平さんの回答はこのようなものだった。「そのようなことは無いとは思います。が、ただ、直径25mのドームを最適と想定するMEGASTARに、このドームシアターガイアは少し小振りでスペース的な奥行き感がなのかもしれません。」
確かに私も、今は無き渋谷の五島プラネタリウムドーム(直径20m)に広がるMEGASTAR-? Phoenixの星空を見た時の空間の広がりをここに重ね合わせてしまうと、直径15.24mのかわいいガイアドームに感じられるもの、そこで求めたものは、まったく異なる質のものであるなあと感じていた。
その後、毛利館長の意見が重ねられた。「本物とは何でしょうか?星の奥行き感ということについて、私達は科学的な視点をもつべきでしょう。ここに展開された星は、私がスペースシャトルから見た星空に最も近いものが再現されています。科学者は、そのような実際のリアリティに迫ってゆくものなのです。科学的に本物に近付けるということは、再現性があるもの、客観的なものなのです。奥行き感などの誇張はありえません。本物をめざします。」
・・・またもや厳然とした事実に気づかされる瞬間であった。
ご縁あって、私自身もMEGASTARのさまざまな映像を幾度も堪能する機会に与っている。正直に振り返ると、一番最初に出逢った、美しいメタリックブルーのMEGASTAR1号機の150万個の星輝く空間が忘れられない。その時の、これまでのプラネタリウムの概念が根底から覆されて、人の手によって、このような天空の再現がなされるのかと、深く感動した。星ひとつひとつを追いかけてみても、その奥にもまた星が輝き、天の川にいたっては、無数の星星の連なりが降ってきそうだ。
その数、460万個になり500万個になった時に、なぜ、その差し出されるリアリティに対する感動がもたらされないのだろう?
それよりも、先週出張していたカウアイの、雨あがりの雲間にのぞく一点のかすかなふるえるような星の輝きに心奪われる方が、深く心に刻まれる感動となって残る。
なにより、ある現象に接する初回の感動という<一回性>は、決して繰り返すことのできないものだ。500万個の星の驚異にせまる現象をはじめて見た人にとっては、そこから立ち上がる感動があるのかと思う。学習は最初の思いきったインパクトが肝心なのだ。
更には、実際、眼にみえていないものの中にこそ、私達は何かを作り上げてしまうという、脳の中のシステムが与えられているのではないか?実際、そこに眼や耳で認知できないもののなかにこそ、そのような何もない空(くう)のなかにこそ、<想像力>は高まり、その奥行きを脳内で生成してゆくのではないかしら。
その意味で、どんどんあるべき星をプロットしてゆく500万個の星は、それまでのものの空(くう)を埋め尽くしてゆくことによって、はるかに、奥行き感を異ならせてゆくことがあるのではないかと思う。一連の星数現象が教えてくれる重大なこころの現象の差異だと思う。
日本の<想像力>的であり<創造力>的なものなのかもしれないが、もともと日本の神々への思想根源には、<空(うつ)なるもの>にこそ、<満ちる気>が宿るという考え方があり、神様を、そのままの姿で眼にはみえるものとはしない、目にみえない風や気配にこそ存在を感じ取ってきた経緯がある。西行が伊勢の皇大神宮の白い帳の前にたたずんで心動かしてうみだしたであろう句にも、日本の<認知力>とでもいうべき証しが残されている。キリスト信仰に篤い西洋科学とは異なる何かがそこに潜んでいる。
なにごとの おわしますかはしらねども かたじけなさに なみだこぼるる 西行法師
ふっと切実に思った。
情報がたくさん与えられることのなかに見えにくくなくなってしまうもの。与えられ過ぎてしまうことで埋没してしまい損なわれてしまうもの。それらから、奪われてしまう正直で自由闊達な<想像力>や<創造力>の損失に、私達人間は、充分用心しなくてはならない。殊の外、現代では、こころのたたずまいを正して、それが何であるか、何のために生み出されているものなのかを、耳目のみならず五感とこころの第六感を澄ましてみる必要がありそうだ。また、情報の差出し方にも、善良な倫理に支えられた真の知性と感性が求められる。そのためには<真の品性>が求められる時代を迎えなくてはならないことだ。
ひたすら空(そら)を眺めて、空(くう)を思い、新しい展望をのぞむ。
そのためには、ほんとうに美しいもの・ほんとうにあるべき姿に接するというような、私達に所与される神々しい体験と、どのように接するか、そして、それは、どのように語り継いでゆけるのかということを、日本人として黙考してみたいと思うことだ・.・.・∞
7/10 11:11