Friday, May 05, 2006

◯1943年のラッキーペニー。

仕事合間に黄金週間モード。

宿題がいっぱいあってMacに向かっていても
外の陽気にさそわれて朝日が照らす緑の光のなかを
いそいそてくてく麻布十番稲荷まで散歩にでかけたり
NHKの朝のラジオ体操をゆるゆるしみじみはじめてみたり
朝市で見つけた新鮮野菜のスウィートバジルとイタリアンパセリを
さくさくぱりぱりかじってみたりと
やっぱりゴールデンウィークである。

そうしていると体内世界時計が巡りだす。

遠く東にダイヤモンドヘッドをのぞみ千鳥の小さな足跡がそこここに
昇る朝日がひんやりとした白い砂をあたためてゆくワイキキの浜辺。

広がる水田を眼下にのぞむツインピークスのレイラインから
緑の峡谷に幾筋もの白い滝と虹の輝きのぞむプリンスヴィルの入江。

アリゾナの青い空に容姿を伸ばすサワロ・カクタスの群れを抜けて
ローウェル火星天文台を目指す途中に静謐にセドナの赤い岩の群景。

色とりどりの花がゆれて咲くオレンジカウンティまでのマリーナ
カラフルなカイトがくるくる回りウィンドウチャイム揺らす南風。

月と太陽が重なるその深い闇に一点の星の輝きをフレアの中に見つめ
鏡面の静止時空に息をひそめたべネズエラパラグアナ半島の蒼い海。

雪が舞う真夜中の天頂に北極星がこんなにも近く北斗七星がめぐり
宙に弧と波と渦を描いて天空を駆けめぐるラップランドのオーロラ。

いまここにいてもスピリットはそのときあのときに飛翔する。
ひそやかな時空間旅行。

サンフランシスコのノバトという街にはPenneyという友人がいる。
知り合ったのはもう12年も前のこと。
ぶどう畑が広がるノースカリフォルニアのワイナリータウン手前の
羊や牛が放牧されているやわらかな緑の丘陵地帯に隣り合わせの
のどかな街に住む。

Penneyの仕事はインテュイティブコンサルタント。
世界中55カ国で『Intuitive Way』という著書が発売された。
日本では『直感への道』というタイトルだった。
なにしろ直感が利くのである。
千里眼といわれるが、向かい合うクライアントの近未来を
かなりの正解率でポジティブに言い当てる。
クライアントしか知らない過去も
クライアントも知らない未来も
Penneyにはあるホログラフィックな映像で見えてくるのだと言う。

来日する際のスポンサーを引き受けることになって10数年
さまざまなクライアントと私自身も接触して
その鋭敏な直感力によって道を拓いた人たちとも多く出会う
ことになった。なにしろリピーターが多いのである。

でも、おかしくも不思議なことに、Penneyはある意識の
フィールドに入らないとその直感モードに入らない。
『統一された意識の場』と呼ぶディメンションがあるらしく
直感モードに入るときは、そこにアクセスしているという。

日頃はごく普通の一般女性なのであって
Penney自身も恋愛に悩み
少しでも安い買い物をすることを喜びとし
タレントのだれそれがかっこいいとか
どこそこの美味しいレストランが話題だとか
ほんとうにたわいもないことをフランクに話す。

その直感メカニズムには私自身、とても興味がある。
実は今の仕事の中核も、この正しい直感力無くしては、到底
よりよい生々発展に関わることが叶わないと実感している。
このモードの使い方が、実はよりよい高業績マネジメントに
つながってゆくような直感がしていて、現在仮説検証中。

今の仕事が少し落ち着いたなら、そのようなメカニズムを
きちんとまとめて何かのお役立てになれば幸いである。

さて、そのPenneyが、知り合ってすぐの頃、自己紹介をかねて
『Lucky Penny』の話しをしてくれたことがある。

「Pennyを拾うと幸運がやってくるって言われているのよ。」
Pennyは、アメリカの1セント硬貨のことだ。
「まあそう!私は、日本でよく一円玉を拾うことがあるわ!」
そのような話しをした記憶がある。
 
人もそのようによく気づくのだろうと思うのだけれど、
道ばたにはよく一円玉が落ちていることがある。
子供の頃から、よく気づいて拾うことがある。

一円玉の見え方によって貧しい人とお金持ちの人とがわかると
小学生の頃に教わったことがあって、貧しい人には一円玉は
大きく価値あるものに見えるけれど、お金持ちの人には一円玉は
小さくそれほども気にならないものに見えるものだと言われた。

でもそのときおかしいなあと小さな頃の私が感じたことを
いまでも覚えている。なんとなく腑に落ちなかったのは
一円玉が豊かに思える人の方が心が豊かで
一円玉が豊かに思えない人の心は何だか貧しいような
そのような気がしてしまったのである。

そしていまだに私の目には一円玉は大きく見える人生のようで
道端に落ちていたりすると、ついついすぐに見つけてしまう。
それは、近くのコンビニエンスストアを探して募金箱に
入れるようにしている。自分のお財布に入れるのは
何となく違うことのような気がするものだ。

さてPenneyからそのような『Lucky Penny』の話を聞いてから
実は海外にゆくと
よくよくPenny硬貨を拾ってしまうようになった。
ほんとうによく落ちているものだ。
拾うPennyそれぞれに
さまざまな年代とさまざまな表情があって興味深い。

そのようなPenny硬貨は
何だか目に見えない神様からの啓示のように受け止めて
ある箱に入れて大切にしている。
募金などの慈善活動は別で行うことにして
与えていただく偶然の幸運の慈善はいつしか
ありがたく受けることにしたのである。

カウアイでは満月の夜にふっと足下に3枚のPenny硬貨が落ちていて
それはプリンスヴィルのマーケットの駐車場だったから
昼間お買い物をしていた人がきっとお財布からコインを
ばらばらこぼしてしまったのだろうと想像がついたけれど
Lucky×3ということで月明かりの中でうれしくいただいてきた。

その1枚はその頃大切だった人に差し上げたが
あとの2枚はまだ大切にとってある。

そしてどう考えても今もって不思議な『Lucky Penny』がある。
ある日手にしたとても大切にしているPennyのことである。

それは成田空港で帰国の際に税関を通った直後のことだった。
確かサンフランシスコから戻ってきたときだったと思う。

仕事疲れでぼーっとしながら歩いていると、目の前の2人連れの
青年達のポケットのボタンが落ちて、コロコロンとフロアーに
転がったようだった。あっと思ってそれを拾って声をかけようと
したら、彼らの姿が、もう無い。背の高い欧米系の人たちだった
印象は残っているのだけれど、バックパッカーのようで、あまり
荷物はもっていなかった。大急ぎで追いかけて探したのだけれど
もうどこにも彼らの姿が無いので、仕方なく立ち止まった。
そして、右手になぜか固く握りしめていた小さなボタンを
指をゆるめて手を開いて見てみた。

直径1cmほどの小さなボタンと思っていたそれは
実はいつも知っているPenny硬貨とは異なる材質の
不思議な1セントコインだった。

そのままよくよく見ると1943年と刻んである。
エイブラハム・リンカーンさんの横顔も表情が異なる。

あたまのなかがぐるぐるした。

このPennyはどこでどのようにこれまで流通してきたのだろう?
なぜこの手の中にこのPennyがおさまっているのだろう?
このPennyを転がした彼らの姿はどこに行ってしまったのだろう?

そのPennyをずっと右手に握りしめたまま
いつものように湾岸高速道路を運転して東京に戻る途中
わあーっと涙があふれてきて内側から何かがこみあげてきた。
車の中に一人だったから思い切り声をあげて泣いてしまった。
ステレオから流れていた澄み渡って生命力あふれるアディエマスの
歌声に触発されたのかもしれない。

第2次世界大戦に人類が踏み込まなくてはならなくなった頃の
人々の思いと姿が何故か思い浮かんでしまったのである。
1945年の終戦までの道程をこのPennyはどこでなにを見つめて
きただろう?

このPennyがアメリカで生まれた年、
アメリカではロスアラモス原子力研究所が開設。
日本では学徒出陣がきまり日本の平均寿命は男性23、9歳。
女性は37.5歳。

戦後の高度成長期に生まれた私たちはすでに戦争を知らない。
当時の人たちよりもずっと長く生命の営みを安穏のうちに日々紡ぐ。
この時代にあって豊かな幸福を享受できる私たちのDNAの内には
それでも祖先からの歴史を経て、喜びも悲しみも多くの記憶を
刻んでいるはずだとも思う。

あらためて不思議なPennyを並べてみた。

先日、これもまた何だか妙なことなのだけれど
MAJESTYのワークルームのフロアにPennyが落ちていて拾ったのだ。
それもぴかぴかの2006年メイドである。
このLucky Pennyもいったいどこから来たのかしらん?




それにしても、あの成田空港の2人の青年のことである。
なんだか風貌がヴィム・ベンダース監督の『ベルリン天使の詩』を
彷彿とさせていたものだったように思い出されるのはなぜだろう?
映画の中の天使たちは
天から堕ちた人間界で、ある思いと感情を得てから
世界がモノクロからいのち溢れる天然色になるのだった。
大好きな映画だ。

ふっと書棚の『情報の歴史』を手にして
1943年の事象をひもといた。

サン・テグジュペリの『星の王子さま』が書かれた年でもあった。

そういえばあの時の旅は
行きがけに『星の王子さま』の単行本を手にして
S F 行きの飛行機に乗ったのではなかったかしら?

ほんとうにたいせつなものは
こころの目で見なくては見えないんだよ。

そう語る本を片手に旅立ち
そうして
見えないものからの1943年の『Lucky Penny』を
もう片方の手にしたあの日。

いまの幸福を思う今年の黄金週間も、残すところあと2日。

いまはまだ目に見えない宿題も
どうか無事目に見えて終わりますように。

Tuesday, May 02, 2006

◯早朝の思考・志向。至高へ。

この連休は、黄金週間があけてすぐにスタートを控えている
3つのプロジェクトの準備・ご依頼いただいている記事の原稿・
その他制作物の宿題山積により、まったくのお休み返上となる。
思えば昨年もそうだった。
昨年はあるVISIONARY 映像制作のために奔走していたのだった。

でも、世の中のお休みモードのためなのか、なんとなく普段よりも
流れる時間がゆったり動いてくれる気がして心の余裕が生まれる。
お正月もそうなのだけれど、この時間の流れの質感は何だろう?
意識の流れの中には、確かに多様な時間軸が存在しているらしい。

ずーっと走りつづけているので、できればこの春には休暇をゲットし
スイスあたりまで旅に出たかったのだけれど、残念ながら儚くも
仮想の夢に果てた。

4/17までベルンにある歴史博物館でアインシュタイン展が
展開されていたので、ぜひとも出かけてゆきたかった。
昨年からパートナーのLISAがスイスには幾度もでかける所用が
あって、そのたびにアインシュタインにまつわるお土産を届けて
くれた。秀逸は、毎朝、早朝に目醒めのコーヒーと共にいただく
アインシュタインクッキーで、大切にひとつひとつかじりながら
仕事に向かった。ほのかにジンジャーの香りがする濃厚な味わい。



ご利益あって、だいぶん早朝のひらめきをいただいたように思う
のだけれど、そのクッキーも最後の一つを惜しみつつ、ぱくんと
食し終えてしまった。

昨年生誕100周年を迎えたアインシュタインの
特殊相対性理論や統一場理論など
物理学素人の私などにも僭越ながら
ときおりメタファー的に身近に感じることはある。
光速までには行き届かないけれど、高速の際の時間・
空間・速度について考えてみる。

例えば、車を運転するとき。

安全運転は絶対であるのだけれど、大概は私の運転する車は先に
走っている車を追い越す。

そのときに時間は相対的になることを実感する。

というのも、17:30の出発飛行機に間に合おうと成田空港に
行くまでにリムジンバスを使おうとすると13:30には近くの
ホテルオークラに行かなくてはならない。

けれども、愛車で快走してゆくのなら、事務所を14:30に出ても
成田空港近くの湾岸高速道路で、その1時間前に乗るはずだった
リムジンを追い越したりすることになるのである。時折は、予定の
リムジンよりも速く成田に到着する場合もある。

そのとき、私の人生のこの1−2時間のバッファは何を示すのだろう?
とよくよく考えてしまう。ただ速く着くということだけではない
含意を思わざるを得ない。私の中には時間の余裕が生まれる。
時はゆったりと流れるのだ。
そしてその距離は目的達成度合いによってどんどん縮む。

高速道路を走っていると、目の前の速度の遅い車を超えてゆくので
その運転をしている人に流れている時間と私の時間の相対関係。
その人の今の時間は私の30分前であったり60分前であったりして
それぞれの速度と時間を超えてゆくような感覚をよくよく覚える。

「If・・(もしも・・だったら)」という未来予測の想定が
頭の中をぐるぐる回転しはじめてしまう。

それぞれの車がそれぞれの時間のなかを進んでいる。
そこに乗っている人たちの時間と、私がこの手元にあずかる時間の
流れは明らかに異なっている。

それぞれの人生のなかのそれぞれの時間が「・・だったら」という
想定のなかで、それぞれの位置で営まれている。
そのような実感とともに、相対的な絶対価値を思う時が在る。

エネルギッシュな速度というのは、現に超越的に時空の不可能を
「・・だったら」と想定して可能にすることがあるのだろうと思う。
でも、もちろん茫洋としていてはだめなのであって、
そのモードに入るための集中力が重要で、とてもエッジな瞬間の
連続の労力の必然を考えたりもする。
それが水素と酸素の結合でロケット並みのエネルギーになれば
宇宙にまで志向を飛躍させることができたのが人類だ。
「・・だったら」という思念の回転スピードによるパワー強化が
必要なのかしらん。しかもそれは、ぐるぐる同じところをめぐって
いたのでは先に進めないのであって、弧を描くようにふうーっと
重力から解き放たれなくてはならないだろう。
スウィングバイの勢いある軌道も連想される。



一方、重力についても考えてみる。
質量があればあるほどに、周囲が寄せ付けられる引力作用が生じる。

例えば組織のコミュニケーションである。

存在意義の大きなものであればあるほどに四辺の周囲との連続的
深みのある揺らぎをつくりだし、そこに誘引せざるを得ない装置を
このような図にイメージを重ねてみたい。



一旦必然に応じて志向の関心がそこに向けば、
自ずとそこに滑り込んでエネルギーが集約され得てゆくフローを
想定してその重力を図りたい。引きつける磁力もそこには含まれる。
それは、単に物質の質量の重さだけではない、思念や情熱のような
思量とも言うべき思いの質量による誘引作用ももちろん含むことだ
と想定する。
どのような集中作用こそが、周囲を引き込む力を増すのかしらん。
しかもそれは、周囲の集中を思えば、左右天地にまま動くのでは
なくて、常に磁石の針がそれを指し示すように極北の盤石なる
ぶれない核芯でなくてはならないだろう。

などと、何だかゆりかごのような時の流れのなかで
仕事の主流から離れてぼんやり書棚から日頃見過ごしている
気になる本をついつい濫読して想像の世界に没頭してしまうので
気づくと仕事はいっこうにはかどらないことになる・笑。

大掃除のときについつい忘れていた昔の新聞の敷紙が出てきて
ついつい読んでしまって先に進めない状態と一緒である・笑。

でも、このような時空こそがとても必要なのかもしれない。

最近は東京からの新幹線の中でも、つい仕事に追われ、すぐに
名古屋・大阪に到着してしまうという事態に反省をしている。
昔は車窓の風景を眺め富士山の雄大さに心ときめかすほどの
健やかな心の余裕があったように思う。
その健全なる広がりをもたらす精神活動への回帰は必要だ。
視点・視座をかえれば、自ずと視野も広がる。発想も豊かになる。

昔、あるネイティブアメリカンが日本に招聘されて東京から
大阪に移動したときのこと。新幹線に乗って新大阪についてから
しばらくじっとして3時間ほども動かなかったという、嘘のような
真の実話を伺ったことがある。
「我々は魂をおいてきてしまった。あまりにも早い移動をして
 しまったので、魂がついてくるまで、ここで待たなければ
 ならない。」と、黙想をして精神回復を待ったということである。

では、飛行機はどうだったのか?という質問も出そうである。
地上と空中では、重力が異なるのではないかと、私は勝手に理解して
しまったことである。
車窓からの(機上の窓からの)景色のうつりかわりはきわめて異なる
もので、バードビューは、地上のめまぐるしさを離れてはるかに
精神の安定をもたらすものでもある。
大気圏を突破したシャトルの窓から見る宇宙空間に浮かぶ青い
地球をのぞめば、あらためて精神回帰するものでもあろう。

昔は空中に天使が回遊していたと信じられていたけれど
今どきは飛行機が飛び回る。
でも、だからといって、天使たちがその上空の宇宙のはるか
目に見えない世界に追いやられたわけでもないと思う。

そうだ、私たち自身が物質的にもその組成が宇宙の星の
かけらであると思考するのなら、どうして地球にも火星にも
太陽にも意識が無いなんて考えることができるだろう?

地球はどんな気持ちだろう?
太陽はいつでも燃えている。その莫大な質量に私たちは常時
引き込まれて周囲を巡る。その広大無辺な光注がれて私たちは
大いなる精神の日だまりを享受しているのではなかったか?
その太陽の意識があるのであれば、どのようなものだろう?
怒りのエネルギーか?燃えるエネルギーか?慈愛のエネルギーか?
月は何をもの静かに想うものか?
星の一生だって、人の一生だって、その描く生命線は相似形に
見えてくる。

目を凝らしてみようと精神を集中すれば、みえないものも
みえてくるものではないかしらん。

なんだかそのように、日常思考の軛を離れ、ゆったりゆらゆら
心地よくも自由我侭に精神のゆらぎをもたらすゆりかごに揺籃
されて勝手存分な思考を楽しむひととき。
脱抑制の黄金週間、贅沢三昧に魂を解放してくれる精神の旅である。
スイスもいいけれど、MAJESTYにいながらにして飛び回るのもいい。

などと久しぶりにふわふあしていたら、携帯電話になじみのコール。
先の電通就職希望のある学生さんから、夕刻にご連絡がはいった。

「今日、最終内定、決まりました!」
「わあ!よかったですね!おめでとうございます!」
「最後の面談で、好きな言葉は?と尋ねられたんです。」
「まあ、それで?」
「以前、薄羽さんとお話した言葉で、『未来と将来』という言葉を
 思いついて・・」
「あら、まあ。」
「未だ来ないという時と。将に来たるという時と。
 そんなようなことを話したんです。
 まだかなまだかなという時の感覚と、
 将に今だというような時の感覚とについて。」
「将に、その時がやって来たのですね!」
「はい!」

電話のむこうの声がほんとうにうれしそうである。
そのようなこと、覚えていてくださっていて
こちらこそ、とてもうれしかった。
彼の配慮ある言葉の選び方に、何だか時の深まりを覚えた。

「ほんとうにおめでとうございます!
 のぞまれたご自身のヴィジョンどおりなのですね?」
「はい、もちろんです。ありがとうございます。」
「いちばんのぞましいところに決まって、ほんとうに
 よかったですね!」
「はい、今日は、家族で歓びを分かち合いたいと思います!」

人生の重みある決断の将来が定まった、晴れやかで弾んだ声に
引き込まれた。
精神の重力の軛を解かれて。
ぜひとも、未来志向は、いよいよ将来の至高へ!



MC Planning も光に思い至り、全てを一つに、跳躍を!