Friday, March 02, 2007

◯スピリット。スプリット。

桃の節句の朝。

目が覚めてMacのキーボードに触れたら
突然にダンテの『神曲』のWikipediaに跳んだ。

実は1月のある日
これまでのハードな出張を共にのりきった大切なパートナー
長年愛用していたiBookが
その仕事先のファイルと重ねて机に置いて振り返った瞬間
背後でバタンと音がして
1メートル下の床に滑り落ちて再起不能になってしまった。
クライアントプレゼン前の慌ただしさの中での不用意だった。

でもそのようなおかげで長年のハードワークから開放されて
次期のあらたなプロジェクトにむかう
貴重なきっかけを得られたのだからありがたい。
日々思索を編む時間が生まれる象徴的な出来事となった。

現在はインテルハイッテルのMacBookを愛用しているが
操作機能が速まったためなのか
どうも直感的かつ不思議な動きをする。
意図しないのに必然自律的に?機能が動くことがあり
それもまたよしとばかりMacとの偶有的対話を楽しんでいる。

ダンテ・アリギーリ13−14世紀のイタリアの詩人。
地獄篇・煉獄篇・天国篇の三部から成る『神曲』は
イタリア文学最大の古典とされる長編叙事詩で
聖なる数「3」を貴重とした極めて均整のとれた構成から
しばしばゴシック様式の大聖堂にたとえられるとある。

ウィリアム・ブレイクのコメディアの挿絵に惹かれて
昔、読んだことがあるが
日本時間3月3日の朝に
『神曲』のエピソードに触れることになるとは
この新生Macにもイースターエッグのように何か隠されて
埋め込まれていたプログラムでもあったのかしらん?

『神曲』では実在した人物の名前が多々登場する。
ベアトリーチェは愛を象徴する存在として神聖化され
神学の象徴であるとも考えられている。
一方、地獄と煉獄を案内するウェルギリウスも
実在した古代ローマの詩人であり
彼は理性と哲学の象徴でもあると考えられているという。

ウェルギリウスに地獄界の教導を請い
煉獄山の頂上でダンテを迎えるベアトリーチェは
ダンテが幼少のころ出会い、心惹かれた少女の名だそうだ。
しかし、のちにベアトリーチェは24歳で夭逝してしまう。
ダンテはそれを知ってひどく嘆き悲しみ
彼女のことをうたった詩文『新生』を纏めた。

『神曲』に登場する天女ベアトリーチェに関しては
そのベアトリーチェをモデルにしたという実在論と
「永遠の淑女」「久遠の女性」として
キリスト教神学を象徴させたとする象徴論が対立しているという。

そのように記されている
Wikipediaへの書き込みの信頼度については
数年前にアメリカ人の友人が
ブリタニカよりも精緻だというよと言うのを聞いたことがある。

なるほど確かに人口に膾炙している現代の情報レベルで読み取れば
実に参考になると実感している。
その真偽の程は情報を読み取る際の注意力によることだ。
現代にあふれる情報などそのまま鵜呑みにするようなことはしない
知恵を逞しくする時代が到来した。

世の中には『不都合な真実』は蔓延している。
メディア情報に真・善・美を保持した感性を以て
冷静に耳目を澄ますことから発見することを
現代の知のありどころとしたいものだと思う。

それにしてもダンテの『神曲』の解説のことである。
実在論と象徴論が
なぜ対立するのだろう?
どちらも認め合えるのではないか。

非実在の立場を取る神学の象徴説では
ダンテとベアトリーチェが出会ったのはともに9歳の時で
そして再会したのは9年の時を経て
二人が18歳になった時の9時であるというように
三位一体を象徴する聖なる数「3」の倍数が
幾度も表れることから
ベアトリーチェもまた神学の象徴であり
ダンテは見神の体験を寓意的に
「永遠の淑女」として象徴化したという説を取るのだけれども。

その年齢が事実であったとしてもそうでなかったとしても
ダンテ自身の創造においては
その両義がふまえられていたということではないと
誰が言い切れるのだろう?
ダンテ自身だって無意識のなかに両義を抱えていたかもしれない。
何が事実なのか?何が価値なのか?
実際に描かれた事実のなかに創造と想像の両方を含み
互いにその価値を認め固い握手が交わされてもよいのだと思う。

父と子と聖霊の固有の3つの位格を示し
「3」を聖数とし三位一体を世界観構造としたキリスト教が
その後に正統と異端に分離してゆくことについて考える
おひな祭り3月3日の朝。

そういえば最後の晩餐の絵画にひそむ秘密を読み解くという
映画『ダヴィンチ・コード』のなかで最も心揺さぶられたのは
異端とされた女性達が魔女狩りという名で迫害を受けた時代を
フラッシュバックさせたシーン。
男性的キリスト教義の陰謀策略の中にあって
アンダーグラウンドに連綿と女性的教義の霊性への
思慕を描いたところだった。

中世の暗く陰湿な教会文化は
男性的な知の強固なる戒律で縛りつける力を以て
なぜ女性的なおおらかで美しい
心の瑞々しさの魔法を剥奪してしまったのだろう?
何の不都合があったのか?

正統と異端。

人間の思惑こそがその妄想を正当化してうみだす差異。
その根源にはいつでも「恐れ」が存在する。

自分と他者の境界線について
その差異と同化についてめぐらすうちに
全体性を欠き
個別の断片化がものごとを歪ませ狂わすことがある。

人類の足跡のなかには
時代の思想が
無為なる悲しい犠牲者を生み出してきた史実が残されている。
「恐れ」が弾圧と隠蔽と迫害を生んだ。

アル・ゴアの『不都合な真実』は
地球という惑星に住む人類の
自然と共にあるという全体性の欠如がどこから生まれてくるのか
その根源に迫ろうとする思索のプロセスに心惹かれるものだ。
「恐れ」から愛と勇気ある行動と受け継ぐ未来を紡ぎ出そうとする。

そのSHOW&TELL方式の見せて・聞かせて・問いかけるという
アカデミー賞に輝いた映画と書籍に触れれば
過去のパラダイムの縛りから未来へのヴィジョンの開放への
思想のクオンタムジャンプ-量子的跳躍を思わずにはいられない。

ふと思い出して
書棚のデヴィッド・ボーム『断片と全体』を注意深く再読した。
原書は1976年に出版。
訳書は1985年3月15日に第一刷。
手に入れたのは90年代にはいってからだったけれど
その後の世界観が大きく揺さぶられた一冊だった。

冒頭の記述を引用したい。

『断片的世界観に支配された人間は
 世界や人間自身をこの世界観にふさわしいように
 破壊しようと試みるようになる。
 あげくの果てにすべてのものがこうした世界観に対応するように
 見えはじめるのである。
 人びとは、自らの断片的世界を正当化する
 もっともらしい証拠を探しだす。
 ついに断片化は、人びとの意志や欲望から独立した
 自律的な存在であるかのように受け取られることになる。
 断片化をもたらしたのは
 断片的世界観に従って行為している人間なのだという
 事実が見過ごされてしまうのである。』

確かにばらばらになってしまったことによる
現代の断片から生まれる世界的規模の個々の矛盾は
対症療法的に処置しようとしても乗り越えられないものだろう。
因果をひもとき
再び全体性を見つめ直さなくては
根本的な価値ある創造には辿り着かないはずだ。
ボームは
全体性−ホリスティックの語源は
神聖−ホーリーにつながるということを示唆する。

20年以上の時を経て
これからボームのような提唱が私たちの全体性回復への
身近な思想になることは
実にスピリチュアル=精神的活動に結ばれるはずだと思う。

そこでふと思い立ち
ピーター・センゲ『出現する未来』も重ねて再読する。
センゲは組織のシステム思考として
分析的な思考に留まらず有機的かつホロニックな
ラーニングオーガニゼーション=学習する組織について
1990年『最強組織の法則』100万部のベストセラーで
そのコンセプトを世界的に広めた。

複雑さを増す現代社会のなかにあって
変化を生じさせている構造を見抜く為には
「木だけでなく森を見る」という
細部から離れてよりマクロな視点から物事をつかむことの
思考方法の重要性を示唆する。

しかし、それはたくさんの木を見れば良いという訳ではなくて
「木を見て森も見る」ために気にいった木を1、2本選んで
その変化に注意と努力を傾けることが
複雑さの根底にあるものを見ることに繋がるということも含む。

更に物事の本質を捉えるのに
分析的なシステム思考では限界があるとして
『出現する未来』では『U理論』が展開される。

立ち現れてくる未来の予知能力をどのように捉え
育成するかを解明しようとする対話が昇華されてゆく過程。

世界は生命体から独立して二元論的に存在するのではなくて
行為を通じて世界と心を産出するという中道の考え方の提示。

主体と環境を直接経験を通じて一体化し
しかもそれは行為を通じて未来を出現させる大いなる意識変革。

なにより『U理論』は「保留」をキードライバーとする。
思考の分析的な習慣から自分自身を切り離すことから始めて
頭よりも身体を使った心身一如の直接経験から
新鮮な目で気づきを得るというのが第一の基本動作。

さらに保留から見えるものの背後にある根源的な生成過程へと
意識転換を試みて分かち合う仮説検証。

そうすると見る側と見られる側の境界がなくなり
深い一体感が得られるだけでなく
変化の感覚が研ぎ澄まされて
現実が今まさに創られているものと捉え
自分自身がその創成に関わっているとの自覚が生まれる。
現実が開かれ
自分もその出現する現実の一部となる。
その出現する未来は自分次第で決まるのだという示唆を
主体と客体の二元論を超えて
大きな世界を共に創るという協働プロセスを通じて語られる。

本書の解説には
一橋大学の野中郁次郎名誉教授の尽力が寄せられていて
知的創造の現場から氏が提唱する「場」の理論についても
あらたな知の創造の活力と刺激を学ばせてただくものだ。

それは氏の新著『イノベーションの作法』というタイトルにも
読み取れる。「技法」ではなくて「作法」という。
そこにスプリットし断片化されたノウハウだけにとどまらない
スピリットという全体性にむかう精神性を伺い知ることが叶う。

ほんとうのスピリチュアリティということは何なのだろう?
それは「恐れ」をうみだすものではなく
「愛」を以て安寧に向うオールマイティとなりうるものだろう。

そのようなわけで
ニューサイエンスやニューエイジブームの興亡と光芒に
1980年代から触れてきたものとして
どうも昨今のお手軽な日本のスピリチュアルブームには
疑問と抵抗を感じざるを得ない。
先行きのみえない不安に対して
断片への閉ざされたガイドを霊性と置き換えることの
安易さに人はなぜ従順に従ってしまうのだろう?
みえないものへの語り方の真性と心性は
よくよく注意をはらって
自らが本質を見抜かなくてはならないことだ。

精神世界と現実世界をスプリット−分断させてしまうことなく
日々の日常の小さな経験の積み重ねのなかにこそ
アクションラーニングを通じた豊かな知を育み
尊く人生を生き抜くということを豊饒にし
精神や霊性を高めてゆくことにこそ
至高の歓びが待っているのだと語り合いたい。

その神秘は
精神と物質のひとつづきの全体性の回復を志向して
いまはまだみえない未知とされるものを
磨き抜いた精神から浮かび上がらせて
現出させてゆくことにあるのだろうと考え至る。

内と外。
目にみえるものとみえないもの。
個人と集団。
かつて境界線によって断片化され
一線を画されていたものたちが
全体性の回復の志向のなかに
再び歩み寄りを進めてゆく足音が聞こえる。

春の訪れとともに
離ればなれになった断片を摘み編んでゆきたい。
『二項同体』のマインドイノベーションとともに。