◯易経。越境。
このところ必要があって『易経』に触れゆく。
世の中の現象をどのように必然性と偶然性との両義から
賢明に読み解くのか。
未来の現象を引き寄せる予言力の姿を
中国太古から今に伝わる過去の叡智と
その現代の読み替えに分け入る。
易はもともと君主の学問を実学にしたもので
2つの意味をもっている。
一つは社会学としての易占。
一つは宇宙論としての哲学。
一つは固定された宿命的資質を読み解き
一つはひとつところにとどまらないダイナミックな動向のなかに
常に変動する運命的エネルギーの駆動力を関与させてゆく。
生まれながらに特定された年月日
誕生地やその後の家庭環境
学歴などの出自は変わることが無いが
一方でその人の生き方としての志向性ややる気と意欲というものは
その往きしし人生の途における事象の出会いを
悉くどのように読み解くかに応じて
運命を大きく変化させ新たな潮流を産み出してゆくことになる。
それは生きるその時代の社会環境にどのように触れ
自らの人生をどのように運んでゆこうとするか
その宿命と運命の中に命運が存在するということを
正しく理解しようとする術にもなるはずで
現代にあってはとりわけ高いインテリジェンスを必要とする
目には見えない本質を読み解くことではないかと考える。
これは現代にあってとても大切な心眼を研ぐ方法かもしれない。
『経』は縦糸。『緯』は横糸。
そのような意味にあって易経は物事の中心を指す。
直感に従い
共に仕事をする仲間と共に真面目に先生に学ぶ。
今はもうお教室をもちお弟子さんを育てていらっしゃるので
街頭に出ることはなさっていないが
かつて銀座の辻占をされていた頃にその方とお会いした。
15年程も昔になる。
「よくあたる」大評判の易者さんだと友人から口コミで紹介された。
ソニービル先の数寄屋橋にあるビルのエントランス角が定位置で
心地のよい夜風に吹かれながら座り込んでよく対話した。
確かに筮竹をふって易象を読み解くことはもちろん
先生がその卦から離れ何気なく思いつきのようにつぶやいたことが
その後に現象として現れ出た事実を
私自身は数多い経験として確証を得てきた。
それはどのようなことなのだろう?
この15年を振り返っても実に多様に実現象をみとめてきた。
同期(シンクロ)していち早くリアライズされるものもあれば
数年かかってからなるほどこのことだったかと
後に発見してきたものもある。
経験的に常にメモを欠かさずに一言一句を書き付けてきたので
時折読み返すことではっと気づく偶然性に驚くばかりとあいなる。
先生に尋ねると
「まあ、そうですか。それはそれは。」とただ笑うだけ。
その奥義に触れることが今回の数回のレクチュアで叶うかどうか。
示唆に富んだそのロジカルな教授に私たちは一同唸ってしまう。
まず先生は物事を習う時には王道の系統を問えと迫る。
このたびの先生の系統を伺った。
中国6000年の歴史の伏義から佃漁から入り
夏・殷・周・春秋・戦国へ。
文王・武王の憂いある易の辞から
諸子百家の孔子や老子の思想を含み
やがて泰の始皇帝による法家の定めにあって
その厳しさを経て法としてではない思想としての
ゆったりとした儒教へと変遷し紀元を向える。
前漢・後漢の後の隋・唐・北宋・南宗の頃
ジンギスカンの躍動や朱子二元論をくぐり抜け
日本の源泉は江戸時代にさかのぼるという。
中国の古い易を伝え
18回の筮竹をふるところを実用的に3回の合理性に
変革をもたらした新井白蛾からお話ははじまった。
明治時代には高島呑象嘉右衛門が継ぐ。
高島のもとには岩倉具視や伊藤博文も集ったそうで
その後の昭和の時代にその重要な理論を集大成した人物が現れる。
易の象意を現代人にわかるように法則化し
今に伝わる易学のデータベースを成した加藤大岳という易聖。
このたびの先生はその人物の孫弟子にあたると伺う。
王道はいつでも批判にさらされている。
だからこそ
その道の筋を通して磨かれぬく。
そのように何かを習うときにはそのルーツを問い
本気で何かになりたいのだったら
王道の系統をつかめと幾度も教示された。
易には常に応用回答が求められる。
常識として社会力を研ぎ宇宙観を磨く。
中国でも一番古い教えである五経にルーツをもち
「何が出てくるかわからない」という偶然性へのアプローチを以て
その都度その都度クリエイティブに現象を読み解く。
陰陽二項同体の両義から予言が出てくることを嗜む。
占法も一つところに留まらず広く眺め
思い込みを外しつぶさに観察することを要諦とする。
占法「五術」について教わった。
命(めい)・卜(ぼく)・相(そう)・医(い)・山(ざん)。
命は命式。
いわゆる年・月・日を通じて図る四柱推命や西洋占星術や気学の
大自然の法則で変わらないものをみつめる固定占法。
ルーツから2500年続く。
卜は周易。
変化しつづけるものを読み取る。決して固定させない。
タロットや五行易となるものはそこに気力が関与するという。
つまりは本人がどのようなことをしたいかという
口頭諮問を繰り返し
未来をどのように選択してゆくかを読む
偶然性を尊ぶ。
相は形態。
いわゆる人相・手相。現象を見てその筋から予言をする。
医は健康・病気。
その状態を読み漢方・本草処方を予言する。
山は長寿・延命。
呼吸を読み仙人的宗教性を伴うという。
生命時間の予言。
だから命式がわかればすぐに人がわかるかというと
決してそのようなことはなく
人を観察することから見えてくる真実に迫る。
現代のスピリチュアルなどといわれている
占いブームの浅さに留まらない
知性と感性が必要だ。
小人が限定を真実のように語ることを離れ
思い込みを外し
満ちれば欠け
欠ければ満ちる
陽満ちれば陰に転じ
陰極まれば陽に転じるという
月の満ち欠けのような
より大きな世界観や宇宙観のダイナミズムを取り入れる要領も
得なくてはならないこと。
これはもうだめだという不可能を可能にする
精神の力強い手段のように噛み応えを感じる。
例えば一つものごとのなかにも「三才」を見るとする。
天(てん)・地(ち)・人(じん)。
天は幼児期教育や親の考え方。
地は学歴・職歴・職能など後天的に身についた力。
人はその人の気力と姿勢。
やはり一番重要なことは物事に対する姿勢とやる気であること。
易象が出たところから
その偶然性のなかでパっと切りかえて新たな創造に向う力こそを
問うことこそが易なのだと直覚した。
易では対話を重んじる。
易では64通りの考え方の手段・方法が差し出される。
偶然引き出された卦から
その考え方において1/64の発想の転換を迫られる。
対話の中のクライアントの受け答えの中に
隠された真実を読み取るのだと伝授される。
変わろうとする気力。
頭を切り替える発想。
そこから編み出される予言。
過去だけにとどまらず時空を超えて未来をひきよせる。
さまざまなものの見方に触れ行く。
社会を見たときに綾をなしている「四象」。
老陽・小陰・小陽・老陰。
陰陽はその両義のギャップに富んだ分だけ惹く力強く
ベクトルが産み出されてくるとされる。
強い相互作用
電磁相互作用
弱い相互作用
重力相互作用
そのような核力の読み解きと
どのような相互作用が関与するのだろう。
他に「小成八卦」による大自然の物象・現象の宇宙の八分類。
陰循・陽循の万物生成の根拠とする「太極」の概念。
その循環思想には江戸時代の白隠和尚が
「大疑後大悟」と残した格言も連想される。
大きな疑いをもった後にこそ大きな悟りを得るという
循環思想に繋がる。
形而上の目に見えない思想的哲学基盤としての「先天」と
形而下の目に見える現世的社会基盤としての「後天」は
めぐる周易が帝王学であることの叡智を今に伝える。
リーダーはいつの時代もただ同じことをしていればよいのではなく
その時々の偶然に対応してゆくことにこそ
真価が問われることを意味する。
マニュアル通りにはゆかない。
人のまねではできない力が求められる。
その際の世界をよみとく・ひもとく・かくとくする手段としての
パワフルな知性として易は存在する。
十二支十干図の読み解き方。
四季方位を通じての大自然の必然の知識。
表をみつつ裏を読む。
陰を見て光を知ることを諭される。
陰陽を考える易の妙味。
二項同体の課題を抱えて更に邁進する予定。
ふっと「タオ自然学」や「新ターニングポイント」を著した
フリチョフ・カプラーを思い出す。
かの人はいまは何処なれど
21世紀を迎えていよいよ西洋と東洋が出会う時機にあって
彼がサイエンティストではなくイノベーターとしてのアプローチを
いち早く手がけていたということの真価が認められたらいいと思う。
テオドール・シュベンクの「カオスの自然学」と共に
書棚に並んでいたそれらのなつかしい書籍の本文を
しばらくしっかり再読してみようと思う。
きっと当時とはまったく異なる感慨を得られるように思う文月の宵。
ひさしぶりにそれらの本を手に取ると
コズミック・ダンスへの招待というタオ自然学の扉で
ハイゼンベルグが語りかけてきた。
「異なる思想の流れが出会うところ
人類の思想上もっとも実り多い発展がある。
これはかなり一般的な真実であろう。
その流れはさまざまな人類文化に起源をもち
時代や文化状況
宗教の伝統なども異なっている。
しかしそれらがひとたび出会えば
あるいは少なくとも互いに作用しあうほど双方の関連が強まれば
そこにまったく新たな
きわめて興味深い発展が起こることは
まずまちがいないと言ってよい。」
20世紀を経て21世紀にたたずむ。
異なる二項同体をたずさえて。
それは循環思想の太極で言うのなら
裏と表・天と地・東と西の対極を超えて
その姿の映し鏡に他ならないかもしれない。
いまや時代思想の変革の足音の前に
何も失うものなどない天・地・人の幸運を思う。