Friday, January 12, 2007

◯七福神。春来る。

虎ノ門金刀比羅タワーは、東京の中心、官公庁に並び天空を突く。


金刀比羅さまは、旅の安全を司る神様なので、そのお向かいにある
JTBで、よく出張チケットを手配していただく。

毎月10日がご縁日。
1月10日は、初金刀比羅さま。
都心にあって、懐かしい祭りの風情がすばらしい。




仕事合間に立ち寄ったなら、あらあらびっくり!
七福神がスタンバイ。
笛の音、お囃子と共に、福来る。




財宝裕福、打ち出の小槌を高らかに振る舞う大黒さま。

商売繁盛、竿を背負ってめで鯛福笑いの恵比寿さま。

技芸向上、琵琶を抱いて弁財天さまは唯一女神でおわします。

幸運・財運・長寿の三徳、豊かな知恵を長い頭に福禄寿さま。

平和健康長寿万歳、扇であおいで幸福招く寿老人さま。

開運象徴、大きな福袋を背に清濁呑込み太っ腹の布袋さま。


北方魔除守護、あっぱれ宝刀勇ましく毘沙門天さま。



春にこやかに七福神が歩く。
迎える人々も満面の笑みで手を合わす。

出店の破魔矢やお正月飾りがきらきらと陽に揺れる。


金刀比羅さまをお詣りする七福神の前を獅子舞がゆく。

お獅子の眼前、金色の歯ならび輝く前に千円札をそっとさしだしたら
中からにょこっと手がでてきて、慣れた速さでお札をしまい
あわせて中から「おめでとうございます!」と声がきこえた。
「ああ、おめでとうございます!」と言おうとした瞬間に
頭をお獅子に噛み噛みされた。
「ああ、ありがとうございます!」と瞬間答えてしまった。
幸運来るか知らん?

あとで考えた。
ほんとうはお獅子にお年玉をさしだしたのだから
お獅子に「ありがとうございます」と言われて
その声に「おめでとうございます」と言うのが
筋だったのではないか知らん?

日本の文化は、目に見えないものに感謝をささげ
目の前のみえている事物よりも
その奥にある存在のかたじけなさに
そっと手を合わす。

見えない神々を見える姿に仕立ててしまう想像力と創造力。

七つの福の象徴は
金刀比羅さまに守られて
海を越えて宝船にのってやってきた。
その姿は、実に心弾ませるユニークな多様性に満ちている。

日本の神々はありがたい。
お獅子にかみかみされてありがたく
今年もがみがみされることなど有り難い
平和になごやかによろこび多い幸運の年になりますように!と
金刀比羅さまの信心深甚、神人楽しい春爛漫。


*Click!すると神様が拡大されます。

Sunday, January 07, 2007

◯レゾナンス。レゾリューション。

新春明けて松の内を過ぎれば
祝日も休日もなく
仕事はじめのミーティング開始。

今年はいくつかの興味深いオポチュニティを抱える。
これまでの方法とは異なる
あらたな着想を着実に型にしたい。

新春早々のミーティングは7:00スタートの2時間。
アーリーモーニングミーティング。
ランチミーティングはこれまでにも多かったけれど
朝早くからの朝陽あふれるモーニングミーティングは
プロアクティブなアイディアが交えられて新鮮だ。

フレッシュカフェに


フレッシュベジタブルで


パワーブレックファスト。

心身ともにバランスがよい。

なつかしくてあたらしい東京スタイル。

日本のバブル期の80年代。
ソニーショールームに勤務していた頃も流行していた。

その頃に較べても
銀座の建造物は
実に天空をめざし高層構想が実ったものだ。
背高のっぽの林立するビルティング群のなかにあって
遠くの山々まで見晴らしがきく。
ヴィジョンの見通しを対話するにもふさわしい。

東京湾の水際の輝きや浜離宮の深い緑を眼下にのぞみ
南西側に建つ東京タワーや城山ヒルズに反射した太陽光は
プリズムして七色にガラスを透過し
東側の空に凛々と輝く朝の太陽は
室内を澄みきった白金色に満たす。

時間と空間は
全き自在に認識を変化させるものだと実感する。

このお正月は
ひさしぶりに幾らかの懐かしい本を読み返す時間に恵まれた。
そのなかの一冊に
ブライアン・マギーの『知の歴史』を辿った。

プラトンの「哲学は疑問をもつことからはじまる」という一節。
いつもは当たり前だと思っていることに疑問をもつということ。

マギーは言う。
「私たちは自分の意志にかかわらず、
 この世に存在している。
 私たちが生きていることの世界のいちばん大きな特長は
 空間(三次元)と時間(一次元)からなる枠組みのなかに
 成り立っているということ。そのなかに人間をはじめとする
 多様な物質が存在しているということ。
 そこで哲学者たちは<時間とは何か><人間を含めて、この
 世に存在するものはすべて物質にすぎないのか。
 もしそういうなら、存在の本質とは何なのか>という疑問を
 投げかける。哲学者というものは、たんに概念だけでなく
 人間をはじめとした実在するものすべてについて
 根本的に理解しようとするのであって、その過程で
 信仰の問題にすりかえたり、何かの権威を引き合いに
 出したりすることはしない。
 もちろん、過去の偉大な哲学者が
 そうであったように、
 個人的には厚い信仰心をもっている人も
 いるかもしれない。しかし、すぐれた哲学者なら
 宗教の助けを借りて自分の主張を裏づけたりはしない。
 哲学的な主張とは、それ自体がみずからを証明するもので
 あって、聞く人に無条件の信仰や服従は求めず
 論理的に納得してもらうものなのだ。
 つまり哲学とは、理性による追求の極限をみきわめること
 になる。」

そのようなことを振りかえってみても
哲学・科学・芸術が、けっして相反するものではないこと。
むしろ、科学が哲学から生まれ、哲学・科学・芸術が、いずれも
宇宙や人間の存在という不可思議に立ち向かって
それをより深く理解しようとしているという
人間のプロアクティブな視点に立てば
いずれもが同じ世界を探求していることに気づかされる。

「こちらはいい」「そちらはわるい」ではなくて
「なぜだろう」「不思議だな」という
「答えがない」ことに向うということもまた
ひとつの答えになってゆくような寛容さ。
その豊饒なる可能性を考える。

あらゆる視点から公正にものごとをみつめてゆきたいと願えば
あらゆる思い込みをはずし
いまはまだ見えないものへの探究心を失わずに
その着想起源がどこにもとるのかということをはずさない。

あらためて「存在」と「認識」の調和から
自然のイデア(形相)を探ってゆきたいものだと
新年のパワーミーティングにて
共にレゾナンス&レゾリューション。

対話のうちに
眼前のサラダのなかのラディッシュにも
その起源に思い馳せた。


種を撒き
根を張り
やがて
芽を出し
葉を伸ばし。

花が咲いて
実を分ける日を楽しみに。