◯TRUE。TREE。
今年は12月にはいってからの紅葉が尚一層のこと美しく
MAJESTYの前の木々や近くの芝公園の木々はおだやかな陽光に映え
例年にも増してそれはそれは見事な輝きだった。
一気に冷え込んだ空気が木々に彩りの緊張を与えたのかもしれない。
毎年の秋の紅葉の思い出は、人生の高揚を深めゆく。
昨年の晩秋は那須の二期倶楽部にて
編集工学研究所長の松岡正剛氏と脳科学者の茂木健一郎氏に
一泊二日のご滞在を通じた
6年ぶりのご対談をお願いしたのだった。
「思えば、もう6年前になるのですね、
幾度も月日がめぐりました。
あの日のあの夜気が思い出されます。
夜空にぽっかり月が浮かび小さなともしびが揺れて
屋上で3時近くまで談笑したものでした。
幾つかの箇所に不明点を残していましたので
この機に、そのブランクにあるべき言の葉が舞い戻り
更なるあらたな豊饒が紡がれ大樹の枝葉となりますように
楽しみにさせていただいております。
あらためてお目通しくださいませ。
歳月がさらにミームの根幹に深まりと広がりをもたらし
今にこそ解き放っていただける
あらたな提言を心待ちしています。」
6年を経てお送りした当時の対談録。
超猛烈にご多忙を抱えられるようになった茂木さんが
このたびはよくご出講くださったことだと
いまでも心が震える思いがする。
一年前に記したこのBLOGにも
私自身、こわばった精神の逡巡が読み取れる。
http://mcplanning.blogspot.com/2006_12_24_archive.html
ある日本の企業プロジェクトを通じて心身ともに疲弊しきっていた頃
どうしても真の学びへの原点回帰を希求しなくては
魂が粗く荒れていのちの灯がかき消えそうになっていた。
その年の2006年7月7日の七夕に
千鳥が淵の「册」ギャラリーで北山ひとみさんが主催された講演会に
出かけ松岡さんと2年ぶりにお目にかかることが叶った。
なつかしくお話を交えているうちに
「いま・ここ」という実感が鮮烈に湧いてきた。
そして、その直後の出張に向かう新幹線のなかで偶然
幸いにも茂木さんからお電話いただいたタイミングがあったこと。
それぞれの好機に勇気をふるって
お二人に6年越しのご対談再会をお願いしていた。
お二人とも「いいですよ、ぜひ」とご快諾くださった。
どうしてもいまこの時機に願わなくてはと
強い想いからご無理をお願いしての敢行だった。
その8月には二期倶楽部オーナーの北山ひとみさんにご相談した。
那須二期倶楽部には「一期一会にとどまらない一期二会へ」という
そのコンセプトに惹かれて以前から家族と共によくでかけていた。
その美しく心が澄み渡る豊かな自然の恵みの中でこそ
お二人の2度目の対談をお願いするふさわしい場だと考えていた。
7月に松岡さんとおめにかかることができた機会の感謝を述べ
「どうしても二期でなくてはならないのですが
その対談のためにどうしても指定したいお部屋があるのです。
記録のためにカメラも入れさせていただきたいと思います。
そのような勝手次第ですがお部屋の予約をお願いできますか?」
「もちろんです、それは重要なプランです。
ぜひともしましょう!」
あわせてその秋には
二期倶楽部の森のなかにかつてどこにもなかった文化創出装置
七石舞台がお目見えするという。
あまりにも偶然な出来事が重なっていることにも驚いた。
尊敬するイサムノグチ記念館館長の和泉正敏氏が施工を担われた
松岡正剛氏プロデュースという。
出版会社についても北山さんとお話しあった。
お二人にご対談をお願いする主旨からも
文藝春秋さんにぜひご相談してみようということになった。
幸いにもすでに茂木さんが「クオリア降臨」をお出しになっていて
ご担当の編集者がいらっしゃるということで
茂木さんから当時出版局にいらした山田さんをご紹介いただいた。
山田さんは第1回目の対談集に静かに目を通してくださり
「興味深い内容ですね。できるだけのことに努めます。」
静かに慎重にそうおっしゃってくださった。
ぜひ那須までお越しいただきたいとお招きした。
そうして上司の西山部長と共に対談の場にご一緒してくださった。
「テーブルにそっと置いてある一輪の野の花のすみずみまで
なんだか心が行き届いているすばらしいところですね。」
そう山田さんが心を寄せて二期倶楽部の印象をおっしゃったことが
はるかになつかしく思い返される。
それから一年の歳月が往来しさまざまなことが流れゆき
ようやく本年の12/15
文藝春秋社から『脳と日本人』というタイトルで刊行実現叶う。
http://www.eel.co.jp/seigowchannel/archives/2006/11/
http://www.eel.co.jp/seigowchannel/archives/2007/12/publishing_21.html
文藝春秋社から見本をお送りいただいた。

その那須の二期倶楽部の木々や大地や風や光が奏でる豊饒な空気感。
二期倶楽部がお二人をおもてなしする心映えの美しさに満ちた風景。
そして、お二人が深い思考を巡らしてくださる素顔。
お二人をお迎えする日。
午前中のおだやかな陽光のなかで
二期倶楽部のマネージャーと撮影スタッフ皆さんと
着々と屋外準備万端をととのえていたのに
中天を過ぎた頃から突然一転にわかに空かき曇り
那須塩原駅から二期倶楽部のエントランスに両氏が到着する間際
那須連山からふきおろす強い突風とともに氷雨が打ちつけてきて
その年の初雪が天から舞い降りたのだった。
厳格な学び舎のような美しい大谷石の静謐なホール空間で
嵐が丘のような夜を思わせる暖炉の火がぱちぱちはぜる前で
そして翌朝のインフレーションのような晴れ上がった青天のもとで
賢者のお二人の対話がスパークした。
そのようなあの場あの瞬間のひとつひとつの情景が
若手写真家・前康輔さんによって真に写し取られ
あじわいある質感と気配に満ちて
実に美しい装丁に仕立ててくださっている。
「那須の自然のなかでのお二人の姿がすばらしかった。
写真を多用しましょう。」
そう英断してくださった第一出版部の西山部長に
心からの感謝を思う。
「二期倶楽部の井筒の泉にこんこんと湧く清水のように
日本の真水のような対話をお願いしたいのです。」
松岡事務所での事前の企画お打ち合わせの際に
前任の文春の編集者の方や松岡さんに
そのようにお願いした。
これまでに拝読した松岡さんや茂木さんの著作の数々を
MCPのオフィスじゅうにひろげて一気に再読・精読していた。
「遊」「自然学曼荼羅」「概念工事」「眼の劇場」「遊学」
そして「生きて死ぬ私」「脳と仮想」「クオリア降臨」・・
タイムマシーンに乗って70年・80年・90年・2000年・
まるで遠く時空を往来するような感覚を覚え
そうしてどのような対角線や補助線を引いてみても
どうしてもお二人には「日本の真水のありどころ」を尋ねたかった。
「世界のなかの日本。日本のなかの世界。
日本人であるはずの私たちなのに
どうしても自国の由来と将来のことを語れなくなっています。
茂木さんも記していらっしゃいますが
現代の知も心も隘路にはまってゆくように思えます。
松岡さんに以前にお願いした「20世紀の忘れもの」をあかして
『21世紀の贈りもの』となるような展望を含めた
そのようなお二人の対話をお願いしたいのです。」とお伝えした。
松岡さんがいつものように大きな手で紫煙をくゆらせながら
ゆっくりとうなずいてくださった横顔が思い起こされる。
昨年の10月のことだった。
振り返ると企業の人財開発の教育の仕事をいただくようになって
20年程の月日を経た。
MCの仕事を重ねているうちに
だんだんコミュニケーション手法の伝達に関わるようになり
さらにはその先の文化創造や関係創出のような仕事が
企業人教育の場で必須で乞われる場面が多くなり
なぜか自然とそのような道の運命へと運ばれてきたように思う。
最初は筑波科学博覧会の企業出展パビリオンのスタッフ教育。
24才の春。
いまでもコップすれすれに水が張る表面張力のような緊張感を
懐かしく思い出す。
ソニーショールームの職にあった経験から強いお誘いを受け
外気を吸いに一旦ソニーを離れた。
厳しい社会の風にあたって実に冷静に世間を学ぶ機会だった。
その経験から以降
大学時代から経験をしていたフリーアナウンサー事務所に籍を置き
一本一本の仕事を一つ一つオーディションを通じて経験してきた。
そのうちに
なぜか教育に関する講演やワークショップデザインの仕事のご縁を
次々にご紹介されるようになった。
マネージャーがいるわけでもないので
目に見えない何かに導かれたとしかいいようがない。
不思議なめぐりあわせだと今でも感謝と共に思う。
いつもそのような現場先行の次第だったから
5年程も仕事を重ねているうちに
だんだんに「これでほんとうによいのかしら?」と
反省を込めて思うようになってきた。
狭めた教育モデルにはならないようにしたかった。
ぜひとも統合的に本質的な人間創造ともいえる
「知・情・意」の深耕過程について
切に学びを乞いたくなった時機を迎えたのは15年程前。
以来「いま、いちばん知りたいこと」を切実に追いかけてきた。
気がつくと、いつも身体が先に動いていた。
学ぶべき先進の識者の諸氏に出会えてきたことの恩恵も深い。
1993年5月の初夏、アメリカのオーランドへ
ASTDが開催するインターナショナルカンファレンスに出かけた。
グローバル規模の教育視点に立ってみなくてはと思い立ち
いま世界に何が起きているのかをリサーチする好機だった。
その国際的視点にたった基調講演で
議長のケネス・ブランチャード氏が
企業教育は「生きること」そのものと関与しなくてはならない
人間の貴い生産行為であるといういうこと、そして
この地球に生きるディバーシティ(多様性)ということの概念を
美しくホロニックな人間讃歌映像と共に提唱された。
「ある一時
地球にこうして生まれ生きたということが
たとえわずかにも
その地球に存在する多様な存在そのものに
よりよいことの何かを残すこと」
そのような生命の芯から沸き上がる強いメッセージに
その場で涙があふれてとまらなかったことを
今も心のうちにあざやかに思い起こす。
その瞬間にきっと私のうちの何かが羽化したのだろう。
そうして、やはりそれならば
日本に生まれ日本に生きて
日本の生産性を問うということの場を与えられるなかに
日本独自の志向性や文化性への探求は欠かせない。
でも日本のそれとは何なのだろう?
そのように実感した。
リサとも異文化交流の多様な視点から
ずいぶんと語り合ったものだった。
その後の1994年の7月22日から開催された
世界祝祭博覧会の仕事。
伊勢に数ヶ月間通いミキモトパールドームの教育を担当した時
地元の方々へのコミュニケーション教育を施す際に
地元の伊勢文化-伊勢神宮のお膝元ゆえの
ゆかしき風土の質感に添いあいたいとプログラム設計した。
しばらく過ごした伊勢神宮のたたずまいのなかに
日本の文化精神の瑞々しい継承を体感し
その日本の文化遺伝子を
その清流が絶えることのない自然観の中に感受させ
1400年以上の持続可能な装置化に至った神代のプロデュース力を
その後ずっと考えるようになった。
そして、その後の1995年の夏。
80年代のバブる時代を経て、終戦50周年を迎える頃
戦後のめざましい日本の経済復興と繰り返し言われる言葉に触れ
なぜだか内側からほとばしってきた
「精神運動としてのなにか」に突き動かされてしまった。
物質的には豊かになった私たちの背景には科学の恩恵がある。
でも、その反面で精神的にも科学では割り切れないとされる
心や想念・意識の領域がある。
そうして精神と科学は対極にあるものだとされる。
どうして共にそこに溝がうまれるのだろう?
どうして結びつかないのだろう?
さらにはアメリカと日本の文化教育性の溝。
原爆の投下国と被爆国という関係において
その両国の教育志向のなかに倫理のゆらぎがあることを
アメリカ人のリサと夜を徹して語り合った。
そうして当時の時代志向のなかにあった
「1/f ゆらぎ」の科学技術への援用と人の意識のありようについて
ほのかなヒントの黎明をみる想いがした。
なにかがそこに隠されているような思いにつきうごかされた。
意識のゆらぎの毎日がはじまった。
実は先のASTDのカンファレンスで隣席に座っていらっしゃった方から
「薄羽さんは何を仕事にしているのですか?」と尋ねられた。
当時手がけていた仕事についてさまざまお話しすると
その秋に人の霊性教育のカンファレンスが日本で開催されるので
その司会役を薄羽さんにお願いできませんかと
お声をかけてくださった牧野元三氏。
インドのシュリ・サティア・サイババの著書翻訳をなさっていた方で
そのサイババ師の降誕祭記念の貴重な教育機会なのだとうかがった。
ビジネスカンファレンスの場でそのようなお話しになったためなのか
「サティア.サイの活動は宗教ではなく奉仕活動なのです。
ですからギャランティは一切でないのですがいいですか?」
申し訳なさそうに問われた牧野さんのおやさしいお顔がなつかしい。
すでに三五館から出版されていた「理性のゆらぎ」を
はからずも読んでいた。
インドのサイババ接見体験によって
科学者があらたな意識の覚醒を得たというストーリー。
それはとても興味深い。
不思議なご縁に感謝をのべて
ぜひお手伝いさせていただきたいとお引き受けさせていただいた。
そのカンファレンスは上野のオーラムビルホールで開催された。
オーディエンスが次々とあふれ入りきれないほどの盛況ぶり。
すみずみまで清まって調っているインド流のしつらいが美しい。
セバといわれる奉仕の心に満ちた人たちの心映えがまぶしかった。
そのなかに青山圭秀さんのファンが熱烈に詰めかけていて驚いた。
いまでも青山さんが通訳された「ガヤトリー・マントラ」の
秀逸なレクチュアが印象的に思い出される。
その清澄な声のトーンは甘美で優しく
今でも遠く鮮明に聞き届けることができる。
当時その文化大使としての姿勢はまっすぐに謙虚で
実に純粋でいらっしゃったものだ。
タイ王国の正統であられる
ジュムサイ博士の「真の教育」についてのご講演も
その瞬間瞬間がいまも鮮やかに思い起こされる。
「教育は -CONFIDENCE -
ものごとの真実について人に自信と確信を与える、
そのような目的がなされなくてはならないのです。」と
実に美しいたたずまいでひと言ひと言を端正に語られた。
その知識の量や広さをいたずらに競う乾いた知ではなく
本質的に人の内的充足のための潤いとしての知に対する
善良なる教えを学ばせていただいた衝撃は
かつてないものだった。
ものごとの真実について学ぶ姿勢にのぞみたいと考えた。
そしてまるでギフトのように
宇宙物理学者の佐治晴夫氏との出逢いに恵まれた。
「ゆらぎの不思議」というご著書は
その魅力的なタイトルに惹かれて読んでいた。
そうして
『ガイヤシンフォニー〜地球交響曲第一番』という映画の
自主上映を行いますので
その映画監督をつとめられた龍村仁さんと
スーザン・オズボーンさんを迎えて
晴海の客船ターミナルのホールでご対談をお願いできませんかと
プロポーズした。とても喜んでくださった。
1995年8月14日晴海フォーラム。
東京湾の傍の客船ターミナルのまわりで
まずはゴミひろいをすることから
その日のプログラムをスタートさせた。
集まった参加者が日中炎天下
嬉々としてゴミ袋何十個もゴミを集めて誇らしげだった。
その多さには後で処理に悩んで深夜イベント終了後
麻布台のマンションのゴミ捨て場まで5往復したのは
遠い懐かしい思い出。
プログラムはその夕刻から
ガイヤシンフォニーの映画上映を通じて
その後にパネラーのお話を交えていただくこととした。
佐治先生と龍村監督がお会いになるのははじめてのことだったから
以前からお話したかったのだと両氏の対話は控え室から大いに弾み
地球交響曲の野澤博士のトマトの不可思議な制作秘話から
私たちは星のかけらという組成を経て
宇宙をみつめる地球に育まれた人間原理に至る
私たちの意識をゆらぎひろげる実に満たされたご対談となった。
この『晴海フォーラム』の様子は一本のビデオ映像にまとめた。
500人ほどが集まった客席から
突然フロアを這い出してきたちいさなベイビーを
スーザンが抱き上げて朗々と歌い上げている
アメージンググレースやアベマリアの美しい情景は
今も光に包まれている。
その翌朝、当時麻布台にあったMC Planningのオフィスの電話が
なりっぱなしだった。
当時はまだ、E-メールは存在していなかった。
「昨晩はすごかった!このような企画はぜひ続けてほしいです。」
「どうしてあんな企画ができたのですか?」
「次はいつですか?」と
終日何人もの方からお電話いただいたことはいまも嬉しい事件。
魂の勲章になっている。
それで、次の企画を立てた。
翌年の1996年の夏。
平成8年8月8日。
同じ晴海の客船ターミナルで
「8・8・8フォーラム」と名付けて開催を企画。
しかし、次にどのような方に
佐治先生とお話いただいたらよいのか考えあぐねてた。
そのような時機に
名古屋の愛知県立美術館脇の大ホールで行われた
「世界公園会議」というカンファレンスの
進行アナウンスの仕事を仰せつかった。
その舞台袖で出会ったのが
モデュレーター役でお越しになっていた
編集工学研究所長の松岡正剛氏だった。
偶然にも直前にそのタイトルに惹かれて
松岡さんの著書を拝読したばかりだった。
舞台袖で目が合ったので
「松岡さん、『空海の夢』、拝読しました。」と言うと
「きみ、あんな本、読んだの? かわっているねえ。」と言われた。
今も忘れられない。
そのステージ上での松岡さんのモデュレートぶりを拝見していて
佐治先生との対話を願ったなら
さぞかし学際を超えて
知性と感性を交える意識のゆらぎを起こしてくださることだろうと
内なる何かが震えて直覚した。
でも、アプローチ方法がわからない。
そのような場だったからお名刺をいただくこともないし
当時は、当然インターネットもない。グーグル検索だってなかった。
ところがご縁とは不思議なものだ。
その3日後。
愛知から戻り
いよいよ仲間と「8・8・8フォーラム」の開催打合せを行う日、
今日ゲストを決定できなかったら案内が間に合わないと言われつつ
まずは昼食をとりましょうといって
MAJESTY向かいの国際文化会館のダイニングに向かったら
国際文化会館の入り口を入った先の廊下向こうから
松岡さんがこちらに向かって歩いて来られた。
まぼろしかと思った。
「あっ松岡さん!」
ご本人だった。
愛知でのことは幸い覚えていてくださったので
「8・8・8フォーラム」へのご出講のプロポーズをした。
名刺をくださって事務所に企画書を送るようにおっしゃっていただき
その後ご快諾いただくこととなった。
その松岡・佐治両氏のご対談も晴海開催を終えた時に
お二人からそれぞれに「次は無いの?」と言われた。
そして1997年の3月から1998年の3月までの一年間。
匙で知と心に栄養を運ぶようにという象徴的な意味と
匙を投げないであきらめない周到さでことにあたりたいという
暗示的な意味も含めた願いをこめて『匙塾』と名付けた。
MAJESTYと国際文化会館のホールを往来して
お二人にご対談を2ヶ月に1回づつ重ねていただき全6回。
聴講された方々のできるだけ多くの方に声をかけて
関心を持ってくださった方々と共に毎号毎回のテープ起こし。
タイムリーに冊子6冊にまとめあげた。
2ヶ月後のご対談をいただく時には
その前回のご対談内容を振り返ることができるようにしたのは
ハードな通常仕事の合間に相当にたいへんだったけれど
実に思考の鍛錬になったことだった。
その5冊目までは
中川卓朗さんという方が当初からご一緒に熱心に名古屋から
駆けつけてくださりそのデータまとめと編集を担ってくださった。
最終の6冊目は私が佐治・松岡両氏の子供の頃のお写真を拝借し
「おもかげ」から「あこがれ」を紡いで編集を行った。
結果として後半途中からご参加になった出版社の方が
僕のところで本を出してあげるからこれまでのデータを
供出して欲しいと言われて差し出した。
その原稿データをもとに編集され仲間の方々と
出版された。
タイトルは『二十世紀の忘れもの』。
心に残る一冊となった。

そしてその後
ずっと考えることに至ったことは
実際の20世紀の忘れものの在処だった。
忘れものは、どこにいってしまったのだろう?
もう出てこないのだろうか?
誰かがどこかにもっていってしまったのかしら?
それとも
ひきもどしてひもといてよみといてかくとくできる?
お二人のご対談を繰り返し読んでいても
人間原理について考えることが多くなった。
そのご対談を数回編む際の間に間にも
松岡・佐治両氏とのお打ち合わせを重ねた。
「マクロの宇宙論とミクロの素粒子論に通じて
お二人に私たち日本人の精神のありようを
お話いただきたいのです」
そのようなことなどを平然とお願いするものだから
そのモノ知らずの乱暴な物言いに
松岡さんにはずいぶん辛辣に叱責いただいた。
今も実に赤面の想いがする。
モノ知らずの怖いもの知らずも甚だしい。
そうして
この宇宙に生きる私たち人間原理を考えてみても
21世紀は脳の未知の可能性をみつめることが必然。
そのような想いを強く抱くようになった。
そのような矢先に茂木健一郎さんと出会った。
1999年。
日本経済新聞に脳科学に関する最新情報をわかりやすく
シリーズでコラム掲載されているのを目にしていて
「脳とクオリア」を拝読していた。
記事を読んだときから
次は松岡さんと茂木さんの対談が実現すればよいなと感じていた。
だから2000年の3月に茂木さんとお目にかかったときには
「松岡正剛さんをご存知ですか?
一度ご対談いただきたいのです。」
すぐにプロポーズしていた。
とても早口でお話される茂木さんがちょっとあとずさりしながら
ちょっと考えた風に
「松岡さんには前から興味があったから、ぜひ。」と
おっしゃってくださった。
その後「脳とクオリア」の扉に
木に鳥がとまっているサインをしてくださったものだった。
大切にしている。
そうして
7年前の2000年7月15日にお二人の初対談が実現した。
京都の祇園祭りのお囃子が聞こえてくる時機
茂木さんが京都で入手されたという源氏54帖を彩った
扇子をお持ちになってパタパタと仰ぎつつ
京都の月鉾のお話から松岡さんとお話をはじめられた。
ビデオ映像のお二人の横顔は溌剌と知の昂揚に向かわれている。
その詳細経緯は
松岡さんの「千夜千冊」の『脳とクオリア』の章に詳しい。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0713.html
その第1回が終わった時
「次は?」と幸いにもお二人に言われた。
でもまだ、お二人にお話いただきたい「真水の対話」は
時機が尚早のように思えた。
早急に本ができるということよりも
何か時機を待ち伏せするような
何かを伏せて何かを際立たせる
何かが熟成してゆくことの必然の気配を思った。
そうして6年間ずっと宿題を抱えていた。
その途中
松岡さんは編集工学研究所で『編集学校』を立ち上げられ
私もその第二期の師範代を努めさせていただき
松岡さんの思考の構造や編集工学のめざす真の目的に
徹底的に触れさせていただいた。
松岡さんの知的思考の枠組みの鍛錬をまるまる一年間
「六本木拈華美翔庵教室」という名前の教室で
実に平均睡眠時間2時間を伴い心身の極限まで
その本気と侠気をスクリーニングした。
眠るよりもエキサイティングな何かが生命力となっていた。
ちょうど20世紀から21世紀への架け橋の1年だった。
茂木さんの先進かつ専心の志向にも
できるだけ触れられる機会に学ばせていただいた。
芸大のレクチュアをされるようになった頃
ずいぶん通わせていただいた。
常に破天荒ともみえる語り口で学生さんを奮い立たせ
志気新風を学生さんに吹き込んでいらした。
そのうちに新潮社の小林秀雄賞を受賞された頃から
驚異的にお仕事のプロジェクトもあわただしくなられ
それでも心優しく
茂木さんはどのような人からのどのようなお仕事も
一本一本大切に受け止め全力を果たされてゆかれる。
途中からは茂木さんの著書やTVメディアやBLOGでのご様子から
その充分な日々の公開情報をさまざま拝察するようになった。
まるでWeb 4.6の恩恵。
そうしてようやく二期倶楽部での一期二会のご対談。
その月日のなかにさまざまなことを目撃し
その様々な時代の変化
その時々の人間の変化
その事々の明暗の変化を実感する。
6年から7年という月日は熟成とともにそれほどに重くもある。
だからこそ
不易にぶれずにある真実の核心の在りどころも
それなりに直視できる勇気を授かった想いがする。
こうして延々長々と時事事由の系統樹を振り返るにつれて
その先にひろがる取組むべきことが段々明確になってきた。
今年もクリスマスツリーがシアトルから届く。
ぎゅっとタイトな紐でしばられていて窮屈だったもみの木さん。
しっかり中心を定めて垂直に立て
順に紐をゆるゆるとひもとき
順にひろがる豊かにのびやかな枝葉に
もみの木の香気を胸いっぱいに吸い込みながら
一つ一つの光輝を添えた。
暗闇のなかに葉の間に間に輝くフィラメントが
「ようやく宿題を提出して卒業だね」。
ほのかにあたたかなやすらぎを与えてくれる。
あ・でも卒論をださないと卒業できない。
静かに気を満たし
眩しく木を見つめ
確かな機を眺める聖夜間もなく。