○<晦日>と<朔>・<あちら>と<こちら>・<神>と<人>・つなぐもの。
先月は晦日(みそか)と朔(ついたち)をはさんで伊勢の内宮に起居していた。この頃の日本は、お正月でもお飾りをしなくなり、お雑煮なども手掛けられない昨今だけれど、ここには、整斉とした文化がそこここに宿っている。日本の美しいしきたりが、まだ、きちんと伊勢の町中には息づいていて、毎晦日の夜には、寄席が開かれ、近隣の人々が集い、顔を合わせて笑いあい、その月の無事を確かめあい喜びあい、締めくくる。そして、翌朝の明け方には、内宮のお膝元、おかげ横町に朝市が奉じられ、遠方からも人々が集い、土地の季節の恵みをいただく。
おなじみ赤福本店にも、季節にあった朔餅が用意される。聴くところによると、その福餅に与るために、何でも午前3時すぎから、その整理券を求めて、人々は長蛇の列をつくるそうだ。日本人のかたじけなさこそが、そのような丁寧なふるまいの姿勢を生むのかとも思う。私は午前5時に支度をしてでかけた。早朝の清々しい空気のなかに、季節柄、燕が鵯(ひよどり)の世話に忙しい。軒先の巣作りの見事さにも感嘆するが、その巣の中でぴーちくぱーちくと小さなひし形の口を開いて待つ子に、ミミズなどを見つけて運び滋養を口移しする親の姿にも、ひときわの風情を思い、思わずその前に足をとめてしまう。
かつて『世界祝祭博覧会』という仕事でご当地盟主のミキモトさんが出典されたパールドームという文化装置のアテンドスタッフのメンバー教育をさせていただいた。その時に契機を授かり、伊勢内宮に幾度となく訪れるようになったが、そこに、今まで一度も『失望』というものを覚えたことはない。というよりも、常にそこには神聖な『発見』と『啓示』が用意されている。
その昔、倭姫(やまとひめ)という才極まる斎宮が、天照大御神を背に行脚をして、風光明美な景観に恵まれ、山の幸・海の幸豊かなうまし国・伊勢の五十鈴川のほとりに寛ぎお鎮まりいただくという定めをこしらえたという。神様と同行二人して日本の中枢となるところをさまざまあたりながら、<場>の力に全身全霊を傾けて<いま・ここ>というふさわしい場所をつきとめたこともすばらしいが、何より、倭姫は、現代でいうところのスーパープロデューサーとしてのはたらきを後世に伝える破格のヴィジョナリーだった。伊勢内宮に、それからの永久に守りぬかれるべき装置と仕掛け−神に対する<ふるまい>・<しつらい>・<もてなし>を創造し、そこに必須の<ルール>約束・<ロール>役割・<ツール>道具を厳格に規定した。その<さだめ>は、いまもなお、正しく受け継がれている。つまり、そこに入れば、時がうつろおうとも、いつでもそこに入れば、神代の時代の空間に神妙にコンタクトすることができるように普遍の仕掛けを講じたのだった。思えば、神との邂逅を許す場所とはそのようなものであるはずだ。神に仕えるということの尊厳から、その規定は一貫して遵守される心理的構造をもたらし、「けっしておかしてはならないルール」をそのままに、きっちりと今も神代をこの世に伝えている。だから、感じる人が感じるとするならば、あの深淵なる神々が宿る杜には、私達の文化遺伝子の深い根源に息づいているであろう神代還りのさまざまなゲートウェイを、そこここに感受するはずなのだ。叡智の宝庫であり、いわば、現代という<此岸>と神聖なる<彼岸>とを行き来できるタイムマシーンなのだ。
さて、重ねて1ヶ月後の今月の晦日と朔は、ハワイ諸島の最北に位置するガーデンアイランド<カウアイ島>で迎えた。ちょうど満月を迎える暦を狙って、神秘的なカウアイの映像を撮影することが目的だった。アンシエントなハワイの伝説によると、カウアイ島には、異星からやってきたといわれるメネフネが、さまざまな文化装置をつくったのだといわれる。その人達は、かわいらしい小人族なのだそうで、カウアイのけわしい山々が連なる中に忽然と作り出したといわれる貯水池が、今もなお残っているし、語り継がれる王家の道に現存する古代祭祀のヘイアウ(ハワイ語で神社の意味)は、メネフネが積み上げたといわれる美しい古代石の石垣に囲まれる。その<つくり>は、まったく伊勢神宮内宮を彷佛とさせるものであって、倭姫とメネフネは、遠い親戚筋にあたるのではないかしらと思うほどだ。
広い平地を垣根や石垣で結界して、<こちら>と<あちら>の際をあきらかにして、その中に、神が振り降りるように、来臨装置をつくりだしている。ヘイアウには、かつて、巨大な祭祀建造物がその敷地のなかにあったようなのだが、いまは、ただ、見晴らす平地の左右に二本の木が植えられてそよそよと風に吹かれているのみだ。あとは、そこに訪れる鳥や虫が遊び、緑の草々が自然に生成している、ひろびろとした自然なる空地だ。考えてみれば、その二本の木は、日本の神道でいわれる<依代(よりしろ)>であることを思わせる。神は、天空から降臨し、その木に宿り、エネルギーを大地にもたらす。ヘイアウに近づくと、伊勢内宮と同様の清澄なる空気感に包まれるから不思議だ。
メネフネ伝説は、今もなお、この石垣を神聖なるものと崇めるように教え、人は、その石垣に触れてはならぬと伝える。晦日の夜中には、どこからともなく、異星からメネフネが来臨し、その石垣にやってきて、賑やかな神々の語らいの宴が繰り広げられるというのだ。どのような宴会が、そこで開かれるのかは知らないが、何だか楽し気である。その石垣には、土地の人々の神聖な畏怖が込められている。椰子の葉で包まれた捧げものが、そっと石のかげに供えられているのを見つけることもできる。
日本では、神無月に、出雲の大社に神々が集い賑やかに語らいあうというが、その建造物の威容には圧倒される。メネフネの小さな神々が集うのは、このようなささやかなる石垣でもよろしいのかと思うと、何となく、畏怖ならぬ親近感が湧いてくるものでもある。などと考えながら、美しいの満月を撮影しようと午前3時すぎのヘイアウに出かけてカメラをまわしていたら、振り返る遠く数十キロ先に、オレンジ色の光源が、じっと留まっている様子がみえる。暗闇で遠すぎて、ビデオで狙っても映像には写りきれないが、よくみていると、時速1kmぐらいの微妙な速度感で、左右にゆったりと、いったりきたりするのだ。一時間ばかり、ずっと目を凝らして眺めていた。目が慣れてくると、闇夜の中にも、木々のシルエットがみえてくるので、その形体の位置と比較しながら眺めていても、明らかにゆっくりゆっくりと左右にいったりきたり、うつろうように移動している。観察者のこちらの身体のぶれで景色が揺れている程度の事では決して無い。少しは科学的な思考も持ち合わせて、観察したけれど、明らかに妙な光だ。そして、その後、だんだんに光が小さくなって、ふううっと消え入った。遠くに飛来していってしまったのか、時空のはざまに吸収されていったのか。最初は飛行機かと思ったり、お星様なのか、人為的な光なのかしらなどと思ったが、どう考えても、そこは、海上だ。昼間に同じ方向を改めて、確認したけれど、やはりそこは、海の上だった。もしかして、メネフネさん達が、その日、石垣に来臨しようとしていたのに、お邪魔してしまったのかしらん。ごめんなさい。
そして、実は、翌朝も、また、そのオレンジ色の光は眼前にあらわれた。今度は、別の地点だった。海のさざ波と共に、明け方の静寂の撮影を行おうと、やはり午前3時過ぎ頃に、今度は、プリンスヴィルという入江の波打ち際に出かけた時のことだった。車から機材をおろして浜辺に向かう時になって、目のはしにオレンジ色の鮮やかな光源が見える。やはり、数キロ先の上空だけれど、今度はあまり動かずに、光をほわーっと強めたり弱めたりしていて、隣にいたスタッフも同様に、見ている。「アレ?」「そう、アレ。」お互いに、頷いてカメラを据えて、撮ろうと思った瞬間、その光は、しゅーっと消滅した。
カウアイには、何か謎があるように思える。あえて、その神秘を包み隠すようにして天然樹木や花々に囲まれるようガーデンアイランドの様相を守り抜いていて、中途半端な現代文化が生み出した人工物を許さないところがあるが、実は、その奥に、高度で未知の秘密基地が潜んでいるとしても、不思議ではないような気がする。そういえば、映画『ジュラシック・パーク』の撮影基地も、カウアイだったという。だからといって、その撮影跡地が、賑やかな遊園地になるようなことは、この島では、決してありえない。
思えば、アンシエントなヘイアウがそのまま素朴に、自然の中に厚く信仰され、野生の鶏や鳥達がのびのびと羽を広げ、朝になれば、コケコッコーと我れ先に声を上げ、車道をところせましと、鳥の家族が我がもの顔に行進できるような世界。豊かな美しい海や山がそこに現存し、日がのぼり日が沈む夢のような波打ち際の美しいモーメントを何の人工物もなく、ひたすら堪能し続けられるというシステムを保ち続けられる、この環境こそが、現代にあっては、高度な知性のあらわれなのではないかと感じる。
日本では、伊勢内宮のような森に包まれた高度な知性が集約された時空間が希有なものになりつつあるが、
そのかたじけなさに、また、魂があらわれゆく希有な体験が、生み出されている。
カウアイは、島そのものに、そのような魂が息づいている。何が飛来し来臨したとしても、不思議は無い。
この時期、私自身の人生においても、とても要となる出来事が連綿としている。誰にでもそのような時分が音づれるのだと思う。このような時に、日々の有り様を、こうして忘れ得ぬものとして刻んでおくことは、後の人生を想像してみても、今は想像もつかないけれど、何か大切なコアに繋がることのように実感するので、此岸(here)と彼岸(there)を自在に移動する魂に大切なものたちを、記してとどめておこうと、あらためて、思う。日々、何気ないことでも、ただ流されることなく。小さなものことに耳目を澄まして、こころの動きを追いつつ。今の世の便利なITの道具をつかいながら。
7/12 10:10