Tuesday, July 20, 2004

○未知に惹かれる<こころのたたずまい>ということを考えてみる。

○未知に惹かれる<こころのたたずまい>ということを考えてみる。

人はどうして希望を胸にいきいきとすることができるのだろう?
その一方で、どうして失望と共にそのときめきは褪めてしまうのだろうか?

答えがわかってしまうと、それはときめかなくなってしまうものなのであろうか?

では、人はどのようにしたら希望を胸にいきいきとすることができるのだろう?

ものごとの考え方ひとつで、ひとつの出来事も、多面な解釈をもつ。その多面性・多義性を了解して、自らの心の姿勢を脳のはたらきで学習してゆくことが、心の手入れをする、心を耕してゆくことになるのだろう。年をとるということは、誰も避けられない厳然とした事実だけれど、どのように年をとるかということについては、自らの<選択性>が残されている。

<どのようにしたら>?

「女性は年を重ねてますますその肉体も美しく味わい深いものとなる」という言葉は、何と優しくも美しい精神を感じさせてくれるものだろうか。映画<カレンダーガールズ>のなかで語られる言葉で、女性の<こころのたたずまい>と<美しさの自信>について考えさせてくれる。癌で旦那様を無くしたある中年女性が、その旦那様の最後の言葉をこころの頼りに、中年女性達がヌードになって写真をとり、そのカレンダーを発刊した物語だ。

自信をもてるこころのありどころ〜確信の学習を私達はそれぞれの人生において重ねてゆくのだろう。
サムエルウルマン【青春】のポエムには、そのような心ある教えが優しく満ちている。
このような発想をもてる<こころのたたずまい>でありたいと思う。
年を重ねて、いつもそこに立ち戻れる自分自身の人生でありたいと願う。

そのためには<喜び>を実感できる人生であるということ。
そして、その<喜び>を、真に分かち合えるものとの出逢いが人生を貫いてゆくこと。
そのようなことを、ときめきながら、思う夜長。


サムエルウルマン 【青春】

青春とは人生のある期間ではなく
心の持ち方をいう

バラの面差し
くれないの唇
しなやかな手足ではなく

たくましい意志
ゆたかな想像力
もえる情熱をさす

青春とは人生の深い泉の
清新さをいう

青春とは臆病さを退ける勇気
やすきにつく気持ちを振り捨てる
冒険心を意味する

ときには
20歳の青年よりも
60歳の人に青春がある

年を重ねただけで人は老いない
理想を失うときはじめて老いる

歳月は皮膚にしわを増すが
情熱を失えば心はしぼむ

苦悩
恐怖
失望により
気力は地に這い
精神は芥(あくた)になる

60歳であろうと16歳であろうと
人の胸には
驚異にひかれる心
おさな児のような未知への探究心
人生への興味の歓喜がある

君にも我にも
見えざる駅逓(えきてい)が心にある

人から神から

希望
よろこび
勇気
力の
霊感を受ける限り
君は若い

霊感が絶え
精神が皮肉の雪におおわれ
悲嘆の氷にとざされるとき
20歳だろうと人は老いる

頭を高く上げ
希望の波をとらえるかぎり
80歳であろうと
人は青春の中にいる

7/20 11:55

Monday, July 19, 2004

○悦びは、投入されたエネルギーに比例する。

○悦びは、投入されたエネルギーに比例する。

この連休、必要があって、書棚の整理をしている。さまざま、気になることが出てきた。今仕事で手掛けている人材開発プログラムにも必要なエッセンスが、降るように手元に集まってくる。ずっと、人がものごとに<価値>を感じて、強い魅力的な<動機>を得られることが、その人の行動変容に結びつくということから、企業の生産効率を高めるためのプログラムデザインをさせていただいている。人の心はどう動くのか、そしてその心はどのような知性を生み出し、その知性は何を求め、行動を興し、そして何を生み出そうとするのか・・・果てしない、人の<価値>と<動機>への関与がはじまる。そこで誠実な仕事にのぞむために『脳科学』や『行動心理学』などの科学的な発想や実証データによる現象の実相、学際を渡った見識者の良識や道徳観に、そのヒントをいただくことが少なくない。
ふわりとメモが書棚のなかから舞い降りた。引用元が思い出せないものながら深い洞察を思うのでここに記して刻んでおきたい。

例えば、1907年に文学士・夏目金之助が発表した「文学論」には、興味深い一節がある。Pearsonの「科学の文法」から感じて記した「外部世界(自我の外)についてこの論ほど真実なものはない。まさに自分が数カ月間考えてきたことじゃないか」「自分自身が科学と文学との関係をより明確に記述してみたい」といった内容が、東北大学図書館漱石文庫「英国留学中購入図書リスト(1900年11月〜1901年9月)http://1112.library.tohoku.ac.jp/cc/soseki/images/img19-10.pdf」に参照できる。

金之助が共感したのは、科学の文法第二章「科学にとっての事実」の部分で、「直接的印象と蓄積された印象の結合が『構成された物』を形成し、それを『自我の外』へ投影したものを『現象』と呼ぶ。
実在の世界とは、この『構成された物』であり、物自体ではない。印象の機械的、精神的結合を通じて、我々は『概念』を形成し、推論を行う。これらが、科学の扱う『事実』である。印象から生み出されたものではないものを『知識』と呼ぶのは無意味であり、印象から生成されてはいないものを『概念』とし、形而上学的命題に適用するのは無意味である。」というのが概要である。

「人間のすべての知識は、『感覚的経験』から始まって、『知性』(連関性を利用して作用を制御すること)を経て『知覚』となり、『概念』に達する。データというものは、全て感覚的印象なのである。観察や実験で得られた印象(データ)を分析し、抽象化し、さらに総合し、一般化し、分類することで法則ができる。これが科学である。それでは、科学では経験以外のことを前提にすることはないのだろうか。科学が分類や一般化によって法則を導くのは、実用的便宜性からである。実用的便宜性とは、過去から未来を予測できることである。経験的に得られた公式を経験外に適用することで手間が省けるのである。この便宜性から一般化とか法則といったものが『(人間によって)生み出された』というのが事実である。
(中略)従って、科学は対象の均一性の過程の上に成立する。均一性の過程を疑えば、科学の基盤は崩れる。次に科学は合理的想像としての仮説を許容する。対象の均一性の仮定は法則を適用するときに必要なのではない。法則を一般化するときに未知変数xの作用が、そこでも存在するものとした仮説的法則を作るために必要なのである。昔から、発明家は想像から示唆を得て、その後に検証を行った。検証が難しくても、この仮説的法則が成立する確立が高ければ、その確立に比例して法則は有効である。」Pearsonは、この種の手続きに従うものが科学となることを主張し、どのような対象も科学となるとした。こうして、生物、経済、心理、生産といった分野が「統計科学(計量xx学)」として一斉にスタートしたという。

夏目の場合は、「文芸」を科学にする10カ年計画を立てた。けれど、この研究は頓挫し、未完の「文学論」を最後に、金之助が自身の理論を実践する漱石に徹することになる。ノートの中で、夏目は明確に「文芸」を記述するモデル(測定モデル)とこのモデルの諸要素が「文芸から得る悦び(Pleasure)」に影響する関係を記述したモデル(構造モデル)とを提示している。

今日の計量経済学で用いられる「生産関数」には<悦びは、投入されたエネルギーに比例する>という構造モデル構築の第一歩がある。

そして、アインシュタインは1940年のアメリカ科学者会議での講演冒頭に「科学とはわれわれの感覚による経験の混沌とした多様さを、論理的に整合な一つの思考の体系に対応させようという試みに他ならない。(アインシュタイン選集・湯川秀樹他訳より)」と語った。

科学する心
その心を耕す科学。
耕したこころをみつめる科学。

よりよいプログラムをデザイン・実行するために、混沌・多様の経験とそこを結ぶ一筋の光明を探るこころの姿勢を科学することを見失わないようにしなくてはならないと思う。その投入するエネルギーを高めてゆくことだけは、私にも誠実にできるものであると思うので、その先に待っているであろう<悦び>こそに<価値>と<動機>を獲得しながら、邁進したいと思う。

果たして、その<悦び>とは、どのようなことが待っているのでしょうか?

7/19 10:10

Sunday, July 18, 2004

○ABCが倒産したと聞き、驚く。

○ABCが倒産したと聞き、驚く。

青山ブックセンターである。国連大学の側にある本店も、我が地元の六本木店も閉じてしまうのだという。
もう、さっそく引き上げ作業が進んでいるようだ。

http://www.shinbunka.co.jp/news/04-07-16-photo.htm/

数十年の昔からお世話になった書店だった。個性的な文学、思想、写真、建築、グラフィック・デザイン、映画、音楽の書籍の品揃えに特色があり、明け方まで営業してくれていて、いつでも必要な本があれば、ABCに電話して尋ねる。プロフェッショナルな書籍でも、よくその場にあった。そして、よく取り寄せてもらった。本のことがわかっている店員さんが、探している本の事情を、よくわかってくれていた。そのような時には、<本のプロフェッショナル>という、何ともいえないその人達のその道の自負を感じさせていただくこともたびたびあった。なんだか安心があった。時代を読み取り、カルチャムーブメントをとらえた文化人トークやサイン会を、よく企画してくれていた。何か夜中に企画書のアイディアが欲しくなったり、考えが行き詰まった時には、六本木ABCの書棚を徘徊できた。入口入って階段をとことこのぼった2階の右手には、多様なデザイン系の本が、きっちりと脳内をすっきりとさせてくれるように分類されていた。知的刺激と感覚的刺激の両方を満たされた。左手には、情報系やサイエンス系があって、素人の私にも、その分類の切り口から、ずいぶんとインスパイアされて、読むべき本がわかったりしたものだった。その上の階には、アートや映画など、かなりこだわりのある選書が用意されていて、洋書に学ぶことも多かった。

松岡正剛さんの本もよくシリーズで整っていた。ちょうど松岡さんを招いて『匙塾』を展開している時に、未だ知らなかった松岡さんの本が揃っていて助かった。事前によく拝読して心構えを養った。「よく揃えて下さっているのですね」と伺うと、松岡さんもABCをよく使っていらっしゃるとのことで、店員さんに松岡さんファンが多いのだと話が弾み、その後、出版業界の傾向あれこれについてまで、いろいろ立ち話してお話をきかせてくださるのだった。ある時には、工作舎との企画だったのか、いにしえのオブジェマガジン『遊』のバックナンバーが、放出されていて、びっくりした。買い占めた。今でも、それらは、事務所の書庫にずらりとあって、時折、アイディアの源泉に使わせていただく。情報編集のルーツ本として貴重本だと思う。感謝している。

毎月、ABCの青い厚紙の領収書が、ずいぶんとたまっていて、税理士さんからも経理からも「本を買いすぎですね」と叱られた。「研究費が必要な仕事なのです。」と精一杯言い訳していた。しかし、今思えば、ABCに行くと、その時折、本のプロが選出したフェア空間というか、雰囲気に刺激されて、ついつい高額本を購入してしまうのだった。

ところが、ふっと考えた。
実は、ここ最近、ABCには、あまり足を運んでいなかったのだった。

仕事が多忙を極めていたということも、あるにはあるけれど、よくよく考えてみると、ABCへのご無沙汰は、明らかに、昨年4月に六本木ヒルズが出来てからである。あのそびえる超高層タワーの49Fには、ライブラリーがあって、24時間いつでも閲覧可能なメンバーにしていただいた。今までの購入していた本のスペースと購入費用などを考えれば、ABCで本探しをしていた高効率をはるかにしのぐ情報収集システムだといえる。常に必要な新刊がタイムリーに用意されていて、独自の情報編集軸による書架を眺めると、おのずとインスパイアされてしまう刺激が用意されている。机が用意されている。ワイアレスLANも走っている。飲み物も用意されている。殆ど事足りる書籍が、回廊式に横溢に並ぶが、もし、必要な本があれば、24時間ライブラリアンが常駐していて、紀伊国屋書店と連動して相談に乗ってくれる。そして、もし、そこにない平たい雑誌が必要になれば、すぐそばの地上のTSUTAYAという書店にゆけば、自由に読ませてくれる。朝7時から朝5時まで開いている。スターバックスとのコラボレーションで、アメリカ式のブックカフェになっているから、売っている雑誌は、その場でゆっくりじっくり、読み放題システムである。必要な本は、いますぐの急を要さないのであれば、Amazon.comで宅配してくれるから、ヒルズライブラリーやここのカフェなど、ワイヤレスLANが走ってるところでいつでも自分の愛機Macからクリック一つで、オーダーできてしまう。

こうして、時代の流れとシステムの進化と共に、ライフスタイルも変化する。どんなに気に入っていたスペースでも、記憶のなかには、とても深く焼き付いているのに、実際、足を運ばなくなっていたという行動に、ようやく気づく。考えてみれば、ABC六本木店は、8年程前、六本木駅上オリベビルが出来た時から、地下鉄から階段を上がった延長上に巨大書店が新規参入して、その便利さから賑わっていたし、(本選びはまったく異なっていたけれど)、その先、昨年六本木ヒルズができて、そこにも巨大な書店フロアーが広がる。先日も、ある人から「ヒルズの本屋さんは、さすがに広くてすごいですね。どれもこれも欲しい本がいっぱいあって刺激されましたよ。」と、興奮ぎみに話しをされたばかりだったっけ。こちらも六本木駅の反対側の出口から昇ってすぐなのだから、ABC、四面楚歌である。

でも、ABCでお世話になった、あの本の<目利き>の人達の風情は、他には無いものだった。あの六本木のバス停の前で、時代の文化をずーっと眺望していたインテリジェントな灯火が消え入ってしまうこと。何かをこよなく大切にしていた人達とのちょっとした語らいが、途絶えてしまうこと。これは、とてもとても、切ない。

そして、その原因のちいさな一端に、きっと自分もあることが、もっともっと、切ない。



7/18 11:11