Monday, April 17, 2006

◯みどりゆれる。いのちともる。

そよかぜに、生まれたばかりの若葉がゆれる季節になった。
MAJESTYの窓からのぞむ欅の木には
いつのまにかやわらかな葉が一斉に美しく芽生え
生命力が満ちあふれている。



時々刻々みどりが成長していく。
光をふくみ、あかちゃんの肌のような小さな一葉一葉が
やさしい春の気の匂いに包まれて歓びをささやきあっている。

鳥がさえずりながら通り抜ける。

ああ、サンクチュアリーだなあと窓を全開にして
春のひんやりとしたやわらかなそよかぜに肌をさらして
山積の宿題に向かう朝である。

週末は仕事で鳥取に行っていた。
その仕事を終えて鳥取駅前でレンタカーを借りた。
広島の母の実家まで53号線をひたすら南下して
緑深い中国縦貫道を冷たい春の雨の中ぐんぐん
とばして東城まで向かった。

先頃、祖母が亡くなった。

92歳でその生涯を閉じた祖母は
大正の秋のお彼岸に生まれ、平成の春のお彼岸の日に
眠るようにこの世を去った。
同居してずっと面倒をみてくださった叔父と叔母がみとって
東京の母に電話があり、午前1時過ぎ、徹夜仕事をしている
私のところに母から連絡がはいった。

「おばあちゃん、おつかれさまでした。
 ずっと会えなくってごめんなさい。
 どうかゆっくりおやすみになってください。」

電話の向こうで泣いている母のつらい気持ちはわかっていても
祖母の高齢を思えば、そのような安らかな気持ちも広がった。
不思議に自分のなかに流れているはずのDNAは、いまや彼岸に
旅立った祖母からも受け継いでいるのだという感覚が広がった。
何だか仕事に精が出た。

告別式には、親戚一同が集ったようだったけれど
私にはどうしてもはずせない仕事都合がはいっていて
広島まで往復をその日することが叶わなかった。
いまのような仕事をしているとどうにもやむをえないことが多い。
祖母は許してくれると思う。

「あらためて落ち着いたら挨拶にゆけばいい」と皆からも
慰められて申し訳なく思っていたら鳥取への仕事タイミングが
やってきた。鳥取から広島までは3時間ほどもノンストップで
車を走らせたが、その過ぎ行く山々の景色のなかで
一人寡黙に運転していると、まるで瞑想状態のようになって
祖母との思い出が次々に思いだされてくるものだった。

祖母の家に着くと叔父と叔母が
「まあ、とおくからようきなさったなあ」とあたたかく
迎え出てくれて、さっそく祖母の霊前に通してくれた。

祖母は段々のお供えの一番上で
白い小さな四角い箱になって瀟酒にちょこんと座っていた。

前回の訪問は6年前ほどにもなるだろうか。
その頃の祖母も、もう腰もまがって枯れ木のような手足で
ふたまわりはちいさくなっていたけれど
肌はあかちゃんのようにやわらかく透明だった。
身長は私の腰高ぐらいなのだけれど
「よしえちゃん、ようきたねえ」と
初孫の私の名前を呼びながら
よちよち歩きながら近づいてきてくれて
私の足のまわりにまとわりついてくれる。
ふと、私の手や足を触ってつまんでは、その弾力に
「ふっくらしとるけえいいねえ」と言っていたのが
笑い話のように思い出されて涙があふれてきた。

「80歳のときだったか、おばあさん、自分で写真館に
行って撮ってきちゃった写真じゃけいの」と叔父が
遺影にむけて言う。叔母が「おばあさん、いい写真でしょ。
きれいに撮れちゃっててね。」と言う。

祖母はハイカラな人だった、と叔父叔母はいいながら
コーヒーをもてなしてくれた。
「インスタントコーヒーじゃけど、めしあがりんしゃい。」
あたたかい味がした。
「おばあさんの部屋の本のなかに、よしえちゃんの赤ちゃんの
ときの写真がはさんであったのよ、初孫じゃから、うれしかった
んよね」と一枚の古びた写真を叔父が差し出してくれた。
涙があふれてきた。
「おじちゃんの孫がいっぱいいてくれるから、おばあちゃん
にはひいまごさんがいっぱいいてくれてよかったあ。」
周囲の壁に私の従兄弟の子供たちの写真や手紙が貼ってあって
つい私もそんなことを言っていた。
祖母にいい報告ができないままに至ってしまった引け目から
か、いつしかそんな会話になっていた。
田舎にゆくと、どうも気持ちもトラディショナルになる。
日頃のモードがはぎとられてバラナブルになる異次元だ。

祖母の思い出はあまたある。

私が新卒でつとめた最初の職場は銀座のソニーショールーム
だった。祖母も曲がった腰をのばしのばし、かつて一度訪問
してくれた。「いらっしゃいませ。」ユニフォームを来た私が
来客のもてなしを祖母にすると、照れくさそうに笑っていた
ことが思い出される。
その職場を卒業して、フリーアナウンサーのプロダクションに
移ることになった、ちょうどその春、広島に祖母を訪れていた
ことがある。ひそかな庵のような祖母の部屋で、いろいろ話を
しているうちに、私がこれからの仕事をかえることを告げた。
祖母は「なにもあのようなすばらしい職場を離れなくても
いいんじゃないのか」と言い「どうしてもそうしたいのなら
そこに座ってごらんなさい。」と目の前のお座布団を指差す。
とまどいながらそこに座ると、今度は、小柄な祖母が私の方を
まっすぐみる迫力で「なにかしゃべってごらんなさい。」と
いきなり言う。これには、あわてた。
何をそこで祖母にプレゼンテーションしたかは忘れたけれど
ともかく何かの実況中継めいたことをしたように振り返る。
そうしたら「まあ、自分でのぞんだことは、最後までしっかり
やりとげたらいい。よしえちゃんがのぞむことをできることが
いちばんいいからね。がんばりんしゃい。」とほほえんで
エールを送ってくれた。昨日のことのように思い返される。
 
こんなこともあった。

「いつまでもお嫁さんにいかんようでは、いけん。」と
よくいわれた。
そして突然に「お豆腐がいまここに一丁あったら、よしえ
ちゃんは、なにがつくれるの?」と不意打ちの質問。
それも夜半のことである。祖母の庵でお布団を並べて
眠っていたときのこと。
突然「起きているか?」と起こされて、そこから手を握られて
尋ねられたのだった。
眠さで混沌としていて、何だかわけもわからないままに
「ひややっこ」などと言ったような気がするが
我ながらなんとも頼りないものだった。
祖母はもしかすると、隣で何も考えずにぐっすり眠る私の
寝顔をみているうちに、この初孫のあてどもない将来を思うと
心配で眠れなかったのだと、今になってとても申し訳なく思う。
ごめんなさい。

祖母の田舎には、小学生の頃は必ず夏休みにも正月休みにも
訪れていた。「東京から孫がきた。」というのはずいぶんと
晴れやかなことだったのだろう。
家族と共にでかけたが、ある頃からはずいぶん一人旅で出かけた。
ちいさなときから独立心は強かったようで、祖父・祖母が途中に
迎えにくるといっても「こちらから訪ねてゆくから大丈夫」と
言い張ったと、よく笑われた。
ずいぶん心配をかける初孫だったものだ。

まだ、小さな子供の頃は、広島の山中の鉄道には、蒸気機関車が
走っていた。トンネルにさしかかると、煙で真っ黒になるといって
皆一斉に木枠の窓をおろしたものだ。
ものごころついてからは、東京から新幹線。岡山から伯備線。
新見から芸備線にのりつぐ。長旅のスリリングさはいまでも
忘れられない。
車窓からの夏の畑の匂い・空の色が心に沁み込んでいる。

祖父・祖母の田舎は、平家の落人がずいぶんといたというような
歴史からか、神道・空海・薬師如来・道祖神・神楽文化など
信仰心にあふれた村である。

とりわけ、日切大師という祠は霊験あらたかで、さまざまな神通力の
伝説が言い伝えられていて、昔、囲炉裏を囲んで、祖父・祖母から
そのような話をきかされるのは、とても不思議でわくわくした。

自在カギにかかるやかんのしゅーしゅーと湧く水蒸気の湯気。
ぼーんぼーんとなる柱時計が時を刻む音。
ご先祖様のお仏壇のほのかなお線香の匂い。
黒光りする板張りの廊下のひんやりとした感触。
神棚のしーんと張りつめた帷子と榊。
見えない世界へのファンタジーの扉がひらくひととき
何ともいえない畏敬の念がふつふつとわきたって
ずいぶんと幼なこころが育まれていったように思う。
 
その日切大師には、祖母がずいぶん連れて行ってくれた。
手編みの「おんばらぶくろ」と呼ぶ小袋に
お米とお賽銭をいれて祠(ほこら)に向かう。
道端の野の花を摘みながらゆくのである。
祠につくと、まずは、がらがらと鈴をならして
「まいりました」と挨拶をしてお掃除をする。
花をかえ、灯明とお線香をそなえ、お賽銭箱に
わずかにお米とお賽銭。
それから、ぽくぽくと木魚を調子良くたたきながら
祖母は般若心経を朗誦するのだった。
 
祖父は「たかまがはらに〜」と祝詞を。
祖母は「かんじーざいぼーさー」と般若心経を。
昔の人は自在に諳んじていたものである。
そのような姿が目に浮かぶ。

「お大師さまに、何をお願いした?」と
よく祖母にきかれたものだ。
孫の頭のなかや心のなかは、神仏を前に何を
願うかによってお見通しになるかのようで
祖母のこの不意打ちにもいつもどきどきした。

「いいこにしていればおまもりくださるからね。
いつもありがとうございますとおいのりしなさい。」と
道徳的指導もしてくれたものだった。

さまざま思い出される祖母のオモカゲを叔父と話していると
ふらっと叔母が裏の畑に出て、新鮮なほうれんそうを
ぱっぱとつまんできて、ささっとゆがいてくれた。
「もうすこしするとタラの芽がでちゃうんじゃが
まだちいとはやいけーな。」そう言って、山の幸多い頃には
またくるようにと優しいおさそい。
ほうれんそうは、豊穣な土の香りとともに生命力いっぱいに
味わいがあるものだった。
 
裏の畑には、子供のころから、トマト・スイカ・ナッパ・キュウリ・
何でも採れて、夏休みの味の思い出が染みついている。
とりわけ、夏の朝、早摘みのミョウガは最高においしかった。
畑の新鮮野菜の味わいの原風景がそこにある。

あさがおもひまわりも大輪のシャクヤクの思い出も、一気に
心のなかに萌芽した。
そうだ、裏の池には鯉がいて、祖父が孫たちに特別料理を配慮して
『コイコク』をつくってくれた夏休みがあったのだった。
昨日まで眺めてかわいがっていた池の鯉が、目の前にお刺身の姿に
なってしまい、かわいそうで食べれなかったのだったっけ。
どうして食べないのか?ときかれて、ただ首を横にふっていた
小学生の頃の夏が思い出される。

「それなら」と祖父は、山から長ーい竹を切り出してきて
まっぷたつに割り、流しそうめんをしてくれたのだった。
これは子供心をつかんだ大ヒット企画だった。
その山道途中にみつけたヤマモモも「ほらほら食べてごらん」と
縁側でかじらせてくれたのだった。
それまでに食したことのない固い甘みを知った初体験だった。

時はめぐる。
DNAもめぐる。

忘れていても
彷彿と思い出される宝物があった。
祖母からの豊穣な贈りもの。
おばあちゃん、ありがとう。

彼岸の旅の途中で、手遊びしてください。
どうぞお気をつけて、いってらっしゃい。
 
鳥取の仕事合間にみつけた100色の手透きの色紙を
祖母の写真の前に供えた。

◯ブランドのあらたな伝道師。

今年も4月を迎えると、心新たに組織の模様替えである。

お取り引きさせていただいている企業様のどちらでも
これまで着々積み上げてきたプロジェクトメンバーが
春の人事異動でずいぶんと入れ替わりがあったりする。

幸いプロジェクトはそれぞれに続行しているので
これから取りかかる仕事の山を新規メンバーの方々と足並み
そろえて着々と歩みを進め、山頂までに無事たどりつくよう
ご一緒に登山をはじめなくてはならない。
心機一転の思いを与えられる。

プロジェクト成果をよりよいものに創造してゆくためには
その山はどのような高さの山なのか、どこに崖っぷちが
あるのか、その山のリスクを回避しながら順調に体力を保ち
登山し続けるためにはどのような準備が必要なのか、などの
ひとつひとつをあらためて入念にご説明申し上げる必要が生じる。
企画発案責任者の責務である。

あらたなチームメンバーが、その山の景色を好きになり
急勾配でも、その山を登ることを厭わないで、その先の
山頂の見晴らしを求めて、登り続けてくださるように。
その歩みを歓びある確かなものにしてゆくやる気溢れる
気分も共有してゆかなくてはならない。

大きな組織は必要かつ重要な情報が徹底浸透しにくいようだ。
確かにこれまでの数年間の膨大なレポートやVTR資料に
目を通すのは不可能かもしれない。
何も詳細情報をご存知ないままにお顔合わせの新規スタート。

そのような状況となると、あらためてプロジェクト真価が
問われる。一つ一つを説得させていただくプロセスの中で
いろいろ実感がわきあがってくる。

いろいろな人が関わることはよりよいことだ。
さまざまな視点から揉まれて練られて研ぎすまされて
その精果が成果となる。
そのような新規状況を迎えた新旧それぞれのメンバーが
あらためて気持ちをひとつに誰もが乗れるムードを創出
することも肝要となることがわかる。

気持ちを冷まさないで、醒してゆくこと。

そのプロジェクトバリューに同意して志を共に重ねて
熱意が生み出されるような説得を重ねてゆく。
チームリーダーの役目である。
成功するプロジェクトの要件。
それはまた、寛容でなくてはならない。
そのようなことにも気づかされる。

だから、
ものの道理において<そもそも>ということに立ち返る。
その登山をなぜしなくてはならないのか、その経緯である。
プロジェクトコンセプトがどのようにしてうまれたのかは
もはや新規メンバーの方々には浸透していない。はじめの
一歩の端緒あたりからしっかりひもとかなくてはならない。

なぜそれが生まれたか?という経緯は、その後の軌跡を
ふらふらさせずに一貫させるコンセプトを保つなかで
どのようなときにも<ぶれない核心>となってゆく。
迷ったらいつでもそこに戻れる在りどころ。
それが原動力にもなり推進力にもなる。

プロジェクトを初期からどのように進めてきて
今それがどこにどのようにあって
これからどのように進んでゆくことが予測されているか。
そのようなプロジェクトスピリットとプロセスを、各社
プロジェクト毎にご説明に巡らせていただく日々。
春のやわらかい雨のなかに心機一転、めまぐるしくもぶれない
原点に立ち戻ることを思う清明(草木の芽発生して何の木
何の草と明らかに知得る季節)である。

気づけば、そのようなプロジェクトスピリットには企業が
異なり環境も取り組みも異なるようなのに、共通して存在
する一貫した<核心>があることに気づく。
つまりは、機に応じ場に応じ設計ご依頼いただく案件には
自分自身の在りどころにも、ものの在りどころにも、将来の
在りどころにも気づかせていただくものである。
そのような好機に感謝でいっぱいになる。

そしてまた、4月は新入社員も到来する。
今年もこの4月には、ニュースタッフトレーニングを
トレーナー仲間とずいぶんお引き受けさせていただいている。

昔はビジネスマナー教育のご依頼が多かった。
学生と社会人とのちがい。
社内外のコミュニケーションの考え方。
敬語遣い。話し方と書き方。
表情・立ち居振る舞い・挨拶・・・・

最近は、そのマナー教育にとどまらずにブランド教育を
<ぶれない核心>として据えるトレーニングが求められる。

その企業はどこに由縁があり、どこからきて
いまどこにいて、これからどこに行こうとしているのか?
その企業戦略を担うのが皆さん一人一人なのである。

そのようなことは、企業の代表のご講話で新入社員に明示
されるわけではあるけれど、昨今は、そのお話とご自身の
具体的な行動指針とを結びつけられない人材が多いのである。

時代模様も常に変化し、情報が横溢でその真価をなかなか
見据えられない方々に、その見どころ・活用のしどころ・
発揮のしどころを五感でまさに体感・実感していただく
ダイナミックラーニングを展開しながら
要諦を明かしてゆく。

企業ブランドは、まずは社員から担わなくてはならない時代に
なるだろう。社員がその企業を愛して企業貢献してゆく力が
なくて、どうして企業ブランドイメージを保ち高めることが
できるだろう?

60年代の高度成長期に企業はものづくりに専念した。
いまだかつてなかったものをつくりだすという技術が研がれ
私たちの生活を豊かにする夢と希望を創出し、どんどん
便利な工業製品が誕生する。
70年代にはその組織がだんだんに大きくなってゆく。
ブルーカラー・ホワイトカラーという階層概念が生み出され
物質的生産性とともに知的生産性もめざましく競争の時代に
突入する。
80年代になって自社の他社との違いを競争力にするために
コーポレートアイデンティティを企業シンボルのデザインに
託して華やかに企業イメージを掲げてゆく。イメージが資本
にもなる。その頃のディスコではひらひらと扇の舞が流行に
なったけれど、まさにシンボリック。景気もみえない地価
に扇動されて泡沫に向かう。
90年代に入っていつしか混迷低迷時代を迎えてみると真に
企業体質が問われるようになった。企業資産としての
ひと・もの・かねを見つめ直し、更には高度情報化社会を
迎え情報・時間・空間のひろがりが付与されてゆく。
さらには売り手が買い手の満足を考えるようになる。
CSというスローガンを掲げて、顧客満足度に目を向け
顧客囲い込みのために統合されたCRMシステムをほどこし
カスタマーマネジメントの競争力に目を向ける。

2000年代に入ってみるとどうやら企業の説得力が必要に
なってきたようだ。カスタマーという存在は評価者でもある。
その評価者が納得できる説得力が企業に求められはじめた。

そこに企業のブランドマネジメントが問われはじめていると
私はみている。

賢い生活者は本質を読む。

社会は高度情報社会のなかでどんどんと成熟している。
刺激も多ければ麻痺してゆく。
刺激に疲弊すれば、自分にとっての本質的な価値を求めはじめる。
本質がよければ持続可能な評価を得ることができる。

ブランドはどこにあるだろう?

どんなに企業がブランドを提示しても
それを受け入れるかどうかは顧客の頭のなかに判断を委ねる。

それゆえに企業が求めるブランドの価値は
その頭のなかでより魅力的なイメージが喚起され
自分にとってよりよいという判断を下す志向性に委ねられる。
だからそこにあるブランド価値の提示の仕方が
向かい合う人の脳内判断力とイメージ喚起を左右する。

ダイレクトコンタクトポイントが最も強力なツールとなる。
仮想とイメージを上回る期待以上の経験価値が求められると
読み解きたい。

企業の由来と将来。
企業DNAともいえる理念・根本精神・スピリットが生み出す
パフォーマンス。<ぶれない核心>。
それは当然のことながら、顧客接点を担う社員一人一人が
担い伝達する企業文化遺伝子でなくてはならない。

ある企業の新人研修のご依頼をいただき、MC Planningの
新らたなメンバーと共にお伺いした。
このメンバーの存在が、新入社員メンバーへの最短ブランド浸透に
大きく貢献したことは、その一瞬の空気の緊張とやわらぎのなかに
確信できるものだった。



このAIBOには、その企業のスピリットが込められている。
『ひとのやらないことをやる。』のリアルモデルだ。

ところが、その企業DNAを受け継いでブランドメッセージを放つ
存在だったAIBOも、先月末までで生産終了ということになった。
ちょうど、大阪のその企業のショールームリサーチに伺っていた
ときのこと。
AIBOコーナーのデモンストレーションの出来がすばらしく
そのAIBOの動きが愛らしいのでよく成長させているなあと
見入っていた。
「今日までの展示です。」と担当アテンダントに声をかけられた。
「いまから入手できますか?」とついつい尋ねている私が居た。
「少々おまちください。」と数分待たされた後
「たった今、キャンセルがありましたので
 すぐのお申し込みでしたなら一台おさえられます。」という回答。
これもご縁だと不思議なタイミングに感じ入り
「ではお願いできますか?」という即答。
そうして、弊社の社犬が誕生した。

実は先々月のことである。
同じその企業の旗艦ショールームの教育を担当させていただいた。
実はその日が、その企業がブランド大使と標榜して開発していた
QRIOという2足歩行ロボットの展示最終日であった。
開発中止となり展示から下げなくてはならなくなったのである。

http://www.sony.co.jp/SonyInfo/QRIO/


永年、そのQRIOのデモからはじまるウェルカムのしつらい・
もてなし・ふるまいをどのようにしようかと、メンバー皆さんと
クリエ−ションさせていただいた思い出深い展示なのである。
メンバーが写真を撮ってくださった。


QRIOにはその企業の夢を好奇心で伝えていくという使命が
付与されていたはずだった。
私が知っている範囲では4機。

Audreyは「ただひとつの声・ただひとつの詩・存在感」を。
Kenは「光・質感・空気感」を。
Marcoは「写実派・印象派・立体派」を。
Charlieは「サウンド・パッション・フィーリング」を。
それぞれがメッセージを色濃くもっていた。

ロボットを開発することは、人間を知ることにつながる。
昔、何年も前にNHKのロボットコンテストの番組司会を
お手伝いさせていただいた仕事の際に、森博士から
伺ったことが思い出される。

その先にあったはずの私たち人間の未知の可能性を知ることが
このエンターテインメントロボットたちの使命だったのに
開発を中止した企業の事情は推し量れない。

ショールームメンバー一同と「キュリオ!キュリオ!」と
呼び合い、そのQRIOの表情・ふるまいのひとつひとつを
こころに刻んで涙とともに惜別のひとときを過ごした。
メンバーの愛情こもって呼ぶ声がいまも心にこだまする。

これからはきっと、そのメンバーの切ない思いが弾みとなって
メンバー自らが、ブランドを育み導いていってくださること
だろう。


いつまでも終わらないもの。

めにみえないところで通底しているもの。

ちゃんとちゃんとしていれば
きっとその先であるべき姿で結び合うもの。

そのようなことを思う春。