◯みどりゆれる。いのちともる。
そよかぜに、生まれたばかりの若葉がゆれる季節になった。
MAJESTYの窓からのぞむ欅の木には
いつのまにかやわらかな葉が一斉に美しく芽生え
生命力が満ちあふれている。

時々刻々みどりが成長していく。
光をふくみ、あかちゃんの肌のような小さな一葉一葉が
やさしい春の気の匂いに包まれて歓びをささやきあっている。
鳥がさえずりながら通り抜ける。
ああ、サンクチュアリーだなあと窓を全開にして
春のひんやりとしたやわらかなそよかぜに肌をさらして
山積の宿題に向かう朝である。
週末は仕事で鳥取に行っていた。
その仕事を終えて鳥取駅前でレンタカーを借りた。
広島の母の実家まで53号線をひたすら南下して
緑深い中国縦貫道を冷たい春の雨の中ぐんぐん
とばして東城まで向かった。
先頃、祖母が亡くなった。
92歳でその生涯を閉じた祖母は
大正の秋のお彼岸に生まれ、平成の春のお彼岸の日に
眠るようにこの世を去った。
同居してずっと面倒をみてくださった叔父と叔母がみとって
東京の母に電話があり、午前1時過ぎ、徹夜仕事をしている
私のところに母から連絡がはいった。
「おばあちゃん、おつかれさまでした。
ずっと会えなくってごめんなさい。
どうかゆっくりおやすみになってください。」
電話の向こうで泣いている母のつらい気持ちはわかっていても
祖母の高齢を思えば、そのような安らかな気持ちも広がった。
不思議に自分のなかに流れているはずのDNAは、いまや彼岸に
旅立った祖母からも受け継いでいるのだという感覚が広がった。
何だか仕事に精が出た。
告別式には、親戚一同が集ったようだったけれど
私にはどうしてもはずせない仕事都合がはいっていて
広島まで往復をその日することが叶わなかった。
いまのような仕事をしているとどうにもやむをえないことが多い。
祖母は許してくれると思う。
「あらためて落ち着いたら挨拶にゆけばいい」と皆からも
慰められて申し訳なく思っていたら鳥取への仕事タイミングが
やってきた。鳥取から広島までは3時間ほどもノンストップで
車を走らせたが、その過ぎ行く山々の景色のなかで
一人寡黙に運転していると、まるで瞑想状態のようになって
祖母との思い出が次々に思いだされてくるものだった。
祖母の家に着くと叔父と叔母が
「まあ、とおくからようきなさったなあ」とあたたかく
迎え出てくれて、さっそく祖母の霊前に通してくれた。
祖母は段々のお供えの一番上で
白い小さな四角い箱になって瀟酒にちょこんと座っていた。
前回の訪問は6年前ほどにもなるだろうか。
その頃の祖母も、もう腰もまがって枯れ木のような手足で
ふたまわりはちいさくなっていたけれど
肌はあかちゃんのようにやわらかく透明だった。
身長は私の腰高ぐらいなのだけれど
「よしえちゃん、ようきたねえ」と
初孫の私の名前を呼びながら
よちよち歩きながら近づいてきてくれて
私の足のまわりにまとわりついてくれる。
ふと、私の手や足を触ってつまんでは、その弾力に
「ふっくらしとるけえいいねえ」と言っていたのが
笑い話のように思い出されて涙があふれてきた。
「80歳のときだったか、おばあさん、自分で写真館に
行って撮ってきちゃった写真じゃけいの」と叔父が
遺影にむけて言う。叔母が「おばあさん、いい写真でしょ。
きれいに撮れちゃっててね。」と言う。
祖母はハイカラな人だった、と叔父叔母はいいながら
コーヒーをもてなしてくれた。
「インスタントコーヒーじゃけど、めしあがりんしゃい。」
あたたかい味がした。
「おばあさんの部屋の本のなかに、よしえちゃんの赤ちゃんの
ときの写真がはさんであったのよ、初孫じゃから、うれしかった
んよね」と一枚の古びた写真を叔父が差し出してくれた。
涙があふれてきた。
「おじちゃんの孫がいっぱいいてくれるから、おばあちゃん
にはひいまごさんがいっぱいいてくれてよかったあ。」
周囲の壁に私の従兄弟の子供たちの写真や手紙が貼ってあって
つい私もそんなことを言っていた。
祖母にいい報告ができないままに至ってしまった引け目から
か、いつしかそんな会話になっていた。
田舎にゆくと、どうも気持ちもトラディショナルになる。
日頃のモードがはぎとられてバラナブルになる異次元だ。
祖母の思い出はあまたある。
私が新卒でつとめた最初の職場は銀座のソニーショールーム
だった。祖母も曲がった腰をのばしのばし、かつて一度訪問
してくれた。「いらっしゃいませ。」ユニフォームを来た私が
来客のもてなしを祖母にすると、照れくさそうに笑っていた
ことが思い出される。
その職場を卒業して、フリーアナウンサーのプロダクションに
移ることになった、ちょうどその春、広島に祖母を訪れていた
ことがある。ひそかな庵のような祖母の部屋で、いろいろ話を
しているうちに、私がこれからの仕事をかえることを告げた。
祖母は「なにもあのようなすばらしい職場を離れなくても
いいんじゃないのか」と言い「どうしてもそうしたいのなら
そこに座ってごらんなさい。」と目の前のお座布団を指差す。
とまどいながらそこに座ると、今度は、小柄な祖母が私の方を
まっすぐみる迫力で「なにかしゃべってごらんなさい。」と
いきなり言う。これには、あわてた。
何をそこで祖母にプレゼンテーションしたかは忘れたけれど
ともかく何かの実況中継めいたことをしたように振り返る。
そうしたら「まあ、自分でのぞんだことは、最後までしっかり
やりとげたらいい。よしえちゃんがのぞむことをできることが
いちばんいいからね。がんばりんしゃい。」とほほえんで
エールを送ってくれた。昨日のことのように思い返される。
こんなこともあった。
「いつまでもお嫁さんにいかんようでは、いけん。」と
よくいわれた。
そして突然に「お豆腐がいまここに一丁あったら、よしえ
ちゃんは、なにがつくれるの?」と不意打ちの質問。
それも夜半のことである。祖母の庵でお布団を並べて
眠っていたときのこと。
突然「起きているか?」と起こされて、そこから手を握られて
尋ねられたのだった。
眠さで混沌としていて、何だかわけもわからないままに
「ひややっこ」などと言ったような気がするが
我ながらなんとも頼りないものだった。
祖母はもしかすると、隣で何も考えずにぐっすり眠る私の
寝顔をみているうちに、この初孫のあてどもない将来を思うと
心配で眠れなかったのだと、今になってとても申し訳なく思う。
ごめんなさい。
祖母の田舎には、小学生の頃は必ず夏休みにも正月休みにも
訪れていた。「東京から孫がきた。」というのはずいぶんと
晴れやかなことだったのだろう。
家族と共にでかけたが、ある頃からはずいぶん一人旅で出かけた。
ちいさなときから独立心は強かったようで、祖父・祖母が途中に
迎えにくるといっても「こちらから訪ねてゆくから大丈夫」と
言い張ったと、よく笑われた。
ずいぶん心配をかける初孫だったものだ。
まだ、小さな子供の頃は、広島の山中の鉄道には、蒸気機関車が
走っていた。トンネルにさしかかると、煙で真っ黒になるといって
皆一斉に木枠の窓をおろしたものだ。
ものごころついてからは、東京から新幹線。岡山から伯備線。
新見から芸備線にのりつぐ。長旅のスリリングさはいまでも
忘れられない。
車窓からの夏の畑の匂い・空の色が心に沁み込んでいる。
祖父・祖母の田舎は、平家の落人がずいぶんといたというような
歴史からか、神道・空海・薬師如来・道祖神・神楽文化など
信仰心にあふれた村である。
とりわけ、日切大師という祠は霊験あらたかで、さまざまな神通力の
伝説が言い伝えられていて、昔、囲炉裏を囲んで、祖父・祖母から
そのような話をきかされるのは、とても不思議でわくわくした。
自在カギにかかるやかんのしゅーしゅーと湧く水蒸気の湯気。
ぼーんぼーんとなる柱時計が時を刻む音。
ご先祖様のお仏壇のほのかなお線香の匂い。
黒光りする板張りの廊下のひんやりとした感触。
神棚のしーんと張りつめた帷子と榊。
見えない世界へのファンタジーの扉がひらくひととき
何ともいえない畏敬の念がふつふつとわきたって
ずいぶんと幼なこころが育まれていったように思う。
その日切大師には、祖母がずいぶん連れて行ってくれた。
手編みの「おんばらぶくろ」と呼ぶ小袋に
お米とお賽銭をいれて祠(ほこら)に向かう。
道端の野の花を摘みながらゆくのである。
祠につくと、まずは、がらがらと鈴をならして
「まいりました」と挨拶をしてお掃除をする。
花をかえ、灯明とお線香をそなえ、お賽銭箱に
わずかにお米とお賽銭。
それから、ぽくぽくと木魚を調子良くたたきながら
祖母は般若心経を朗誦するのだった。
祖父は「たかまがはらに〜」と祝詞を。
祖母は「かんじーざいぼーさー」と般若心経を。
昔の人は自在に諳んじていたものである。
そのような姿が目に浮かぶ。
「お大師さまに、何をお願いした?」と
よく祖母にきかれたものだ。
孫の頭のなかや心のなかは、神仏を前に何を
願うかによってお見通しになるかのようで
祖母のこの不意打ちにもいつもどきどきした。
「いいこにしていればおまもりくださるからね。
いつもありがとうございますとおいのりしなさい。」と
道徳的指導もしてくれたものだった。
さまざま思い出される祖母のオモカゲを叔父と話していると
ふらっと叔母が裏の畑に出て、新鮮なほうれんそうを
ぱっぱとつまんできて、ささっとゆがいてくれた。
「もうすこしするとタラの芽がでちゃうんじゃが
まだちいとはやいけーな。」そう言って、山の幸多い頃には
またくるようにと優しいおさそい。
ほうれんそうは、豊穣な土の香りとともに生命力いっぱいに
味わいがあるものだった。
裏の畑には、子供のころから、トマト・スイカ・ナッパ・キュウリ・
何でも採れて、夏休みの味の思い出が染みついている。
とりわけ、夏の朝、早摘みのミョウガは最高においしかった。
畑の新鮮野菜の味わいの原風景がそこにある。
あさがおもひまわりも大輪のシャクヤクの思い出も、一気に
心のなかに萌芽した。
そうだ、裏の池には鯉がいて、祖父が孫たちに特別料理を配慮して
『コイコク』をつくってくれた夏休みがあったのだった。
昨日まで眺めてかわいがっていた池の鯉が、目の前にお刺身の姿に
なってしまい、かわいそうで食べれなかったのだったっけ。
どうして食べないのか?ときかれて、ただ首を横にふっていた
小学生の頃の夏が思い出される。
「それなら」と祖父は、山から長ーい竹を切り出してきて
まっぷたつに割り、流しそうめんをしてくれたのだった。
これは子供心をつかんだ大ヒット企画だった。
その山道途中にみつけたヤマモモも「ほらほら食べてごらん」と
縁側でかじらせてくれたのだった。
それまでに食したことのない固い甘みを知った初体験だった。
時はめぐる。
DNAもめぐる。
忘れていても
彷彿と思い出される宝物があった。
祖母からの豊穣な贈りもの。
おばあちゃん、ありがとう。
彼岸の旅の途中で、手遊びしてください。
どうぞお気をつけて、いってらっしゃい。
鳥取の仕事合間にみつけた100色の手透きの色紙を
祖母の写真の前に供えた。


