◯夏ときめく。
ミーン・ミーン・ミーン・ミーーーン
Majestyのまわりは
いまや盛夏のしるし
ハイパーな蝉の大合唱に包まれている。
耳を澄ますと
今を盛りと懸命にその生命を昇華している無数の
蝉の鳴き声は多様だ。
手前にもその奥にも、その先にも、
幾重奏にもなっているのがわかる。
今年、はじめて聞いた蝉の声は、
七夕の思いがふっとよぎった7月7日の午後だった。
ジジ・ジジジジ・・・
ミーン・ミーン・ミンミン・・・ミン? ミン? ミ・ミ・・・
ジジ・・
すぐ窓の外の櫟の木にうまれた
気合いの入った第一声が、
すぐにしゅんと絶えてフェイドアウトした。
長梅雨の肌寒さで、気温がまだ足りていなかったのか、
時機ではなかったと瞬時に悟ったかのように
まるで、夢からはっとねぼけて目覚めたのだけれど
やっぱり、もうちょっと待とうかな・・とばかり
すぐに眠りにもどっていったかの様子。
それからしばらくは、窓の外は、しとしとの梅雨に
緑の葉が濡れているような日々が続いた。
ようやく蝉の本調子が出てきたのは、
7月28日。
蝉くんたちが、テレビやラジオや新聞のたよりを
みたりきいたりしたとは思えないけれど
ちゃんとちゃんと、その時機は
日本列島梅雨明け宣言にあっている。
屋形船でゆらゆらと隅田川の花火を
ストラフィアブルーの夜空に仰いだのが
その翌日だった。
ミーン・ミーン・・日に日にその数は増して
夏の大団円となってゆく。
窓の外に、真夏が広がる。
夜半には、蝉も眠る静かな静寂が訪れるが
一昨晩のこと、なにやら、窓ガラスのすぐむこうの木々のなかに
かさ・こそ・・と、かすかな気配があり
全身の神経を集中して、様子を伺っていたら
突然に
ジ・ジ・ジジジ・・・
ミーン・ミーン・ミンミン・・・
ジジ・ジジジ・・・
ミーン・ミーン・ミーン・ミンミン・・・
どうやら蝉が羽化した瞬間らしい。
しかも、同時に2重奏。
しばらくの間、その音の重なりがあって、夜は更けていった。
その蝉たちの誕生と出会いの時機は、
まるで星に定められていたのかしらと
蝉の運命論?を思うほどに
それは、ほほえましく呼応して重なり合っていった。
昼間になれば、Majestyの木立のまわりには、
飴色の蝉のぬけがらを、
あちらこちらに見つけることができる。
空蝉ー<うつせみ>という言の葉の響きを知ったとき
なんとも万葉の感があふれていて、
この世は、蝉のぬけがらのように仮のもの
はかないものだと知るこころのありように
せつない哀しさを思ったものだ。
けれど、実際の空蝉のぬけがらの存在感には目がはなせない。
本来、風が吹けば飛んでしまうような軽量のぬけがらは
草木をしっかりと手足でつかんだ幼虫の形態を
端々にまでとどめながら
背にぱっかりといさぎよく線を割った
迫力ある容姿を残す。
その不思議な造形をかえすがえす眺めてみれば、
たくましい生命のメタモルフォーゼの自然の妙に
深い感動が喚起されるものでもある。
地中で数年の時をあたためながら、蝉は何を思うものか?
地上に出てその存在を謳歌する大合唱。
彼らの生命連鎖のなかに、
生きる瞬間の力の凝縮があるように聞こえる。
それは、蝉の命短しというようなはかなさというよりも
蝉時間に生きるたくましさや放埒な歓喜を思い
毎年『夏の第九』などと連想は広がるものでもある。
どれだけ生きるか。
ということよりも
どのように生きるのか。
そこに
『喜び』ということの核心に向かうことあっての
長さ深さで量れない生命の凝縮の構造に気づく。
そのようなパッションを蝉時雨にうつす
2006年の盛夏。
一方で、ひととき涼やかに
心を澄ます静かな夏のたたずまいもある。
不忍池の蓮のひろがりには、
なにもかもが寛容に抱擁されるような
虚空の浄土感を想うものだ。

今年は春から月に一度づつ、
上野池之端の大学病院に父母と連れ立って
心臓外科医の先生のところにお伺いしている。
紅葉輝く北の丸公園や桜の千鳥が淵を
共に散歩しながら
世の中の価値観やこれからの人生のありかたについて
若き薫陶を施してくれたかつてのボーイフレンドが
カミソリのようにシャープで
シニカルな人だったと思い起こされるのは、
はるか遠い昔、10代の高校時代の記憶写像。
四半世紀ぶりの再会がめぐってきたのは昨年のこと。
偶然インターネットで私の名前を見つけてくれた友人を介して
「おひさしぶり」の挨拶が届き、会うことになった。
その人と向かい合って話していると、
面影は変わらないのだけれど
心臓という生命を紡ぐ器官の専門性を
その手に宿す技巧の研磨とともに
人の心のあり方をも研ぎ澄ましてきたのだと
日々積年の先にあって
実にまろやかになられていた印象が鮮やかだった。
その後の今年の春、
ある病院で診断を受けすぐに心臓手術を迫られた父だが
セカンドオピニオンを求めたところから、彼の診断により
適切な投薬と日々の家族ぐるみの食生活による処方をして
高齢の父の手術を免れた。
良好な健康状態へと改善され、安堵の日々に感謝が絶えない。
私の父は、脳梗塞後、あまり人と話しをしないでいたが
彼の問診に、一生懸命自分の身体の調子を訴える。
えんえん回りくどい説明を語り続けていたりしても
その文脈を追いかけながら
「そうですね、そのお気持ち、よくわかりますね。」などと、
にっこり笑顔で受け止めてやさしく傾聴してくださる。
あることに気づいた。
彼の診察室前でしばらく順番待ちしていると
ドアが開くたびに
「じゃあ、お大事に!」と
どの患者さんにも明るく見送る彼の姿があり
その周囲は、大学病院のなかにあっていつもにぎやかである。
「先生、ありがとうございます」と
どなたもが深々と礼をして安らぐ表情で立ち去る姿がある。
私たちも病院帰りには、いつでも感謝とともに足どりが軽くなる。
その弾みで
ぐるりと不忍池のまわりを散歩しながら、
父や母とこれからの人生をめぐって談笑しあい
未来に心澄ますことの時機を与えられるものでもある。
父や母にとっては、最近の生活の楽しみの一つとなったようで
エンターテインされる月一回のイベントの様相を呈してきた。
大学病院でこんな心わきたつうれしそうな表情を見せるとは
想像できかねた。
「次に行くときまでに、もっとよくなっていたい、
先生に報告したい」
そんな思いを患者が抱く時、
健やかな心身創造の可能性が許される。
優れた医師との出会いの確率が、
シリアスな意味において、人の運命を左右する。
その出会いもまた、運命であるのか、
望めば、遇然を選択できうるものなのかは知らない。
ただ、心底からの感謝があるのみだ。
それにしても、『時』の間の熟成とは、不思議なものだ。
例えば、会いたい人と会いたいときに会えないということは
会えないでいる時が連綿と横たわるうちに
内に積み重なり凝縮されてゆく確かなものがあることを学ぶ
貴重な契機となることを知る。
そして、
やがて会える日がもたらされるかもしれないと
すべてのことに時機があることをのぞむとするのなら
その凝縮されたもののなかに
幾度も幾度も思いをスクリーニングして透過されてゆく
一縷の真価の光を見いだすこと。
そのときのために
日々研ぎ磨きつづけておくことの原点に思い至る。
そこに、おそらくは付与される福音があるのだと信じたい。
吹く風にゆらりゆらりとゆれる
蓮の葉とそこから潔くまっすぐにのびゆく蓮華の蕾を見つめてみる。

日々の降り積もる出来事のなかにも
静かに潜行して見失ってはならないもの。
正直にこころから敬愛するもの。
その存在との邂逅を
諦観にとどめようとしても
とどまるにおえない
その存在に対する、えもいわれぬ感謝。
生きることの由来と将来。
『時』という悟性のうちに
至高の浄土に連なるような蓮華の縁に立ってみれば
その根底の泥のなかにあふれているであろう
豊穣な世界が迫りくる。
その底の澄まし方にこそ、蓮華実生のその茎を
はんなりひねることのできる拈華微笑が、
にっこりとたおやかにおとづれる真価・深化を求めたい。
世界の叡智を引き取るということの
虚空の真意と精神を
お釈迦様の伝説は今に未来に明かしている。
お釈迦様が蓮池の上から覗かれて注いだ慈悲には、
生きる力が漲っていたのではなかったか。
そして、その一縷の蜘蛛の糸にすがる、
すがり方こその智恵が伝来されているのだったと、
蓮華を見ていて気づかされる。
インターネットという道具を手にした現代は、
虚空に網羅された真珠の華厳のパールネットワークのように
その鏡面に互いの姿を映し出して照応させて連なってゆく。
そのような現代のエッジで、
日々清々と真摯に進化創造を紡ぐ
妙なる人の発する一言一言に、
真に響鳴してゆく心眼がかないますように。
生命の力を研ぎ
真言の力を磨ぐ。
空蝉に
蓮池に
夏ときめく。