新年の来客を迎えた。
昨年末にご連絡をいただき、新春早々に訪問してくださった。
12歳年下の女性で12年ぶりの再会。
さまざまお話しているとなつかしいこと・あらたな気づき・
これからの展望など、さまざま実りを得られるのは
その間にたゆたう
それぞれがそれぞれに真に取り組んできたことの
多様で一途なあわいの時間空間があるからだろう。
距離ということも、また、大切な財であることに気づく。
距離があっても、何かが根底でつながっていることを
「縁」というのだろう。
その人は「理想」に向かって進んでゆきたいのだと言う。
だけれども社会のなかには、その「理想」どおりには進まない
さまざまな軋轢があることにも気づいたのだと
まっすぐな目で語りかけられた。
そうして時折、それでも「理想」を見失ったらいけないと
思い返し、ふと思い出すのは、12年前の出会いだったと
訥々と語ってくれるひとときだった。
12年前の私が喚起される。
何を思い、何に向ってゆこうと、何に努めていたのだったか。
何も変わっていないようにも思えるし
何かとても変わってしまったようにも思える。
時をさかのぼっても
取り返しのつかないことがあるようにも思えるけれど
思えば
時をさかのぼってもそれ以上の「いま・ここ」を思えば
その時があったからこそと取りかえしがつくものでもありそうだ。
その「思い」の力が不可能を可能にすることについて
目の前になつかしい人を迎えながらさまざまめぐらす好機を得た。
きっと、その人が「思い」の力に優れた人だったからだろう。
人の「思い」は交流するうちに伝搬して共有される。
共感をともない、感動を呼ぶ。
みえないはずの思いが目にみえるかのように共有できるということは
どのようなことなのか?
その互換できる力とは何なのか?
「知識」の交流は双方に同じ経験知がなくては共有が難しく
「感動」の交流は共鳴すればわかちあえるのはなぜだろう?
根底に共通の人間のメカニズムがあるからだろうか?
12年前の共通の話題と共に
12年間の共有されていないみえない話題を重ね合わせる。
仕事のこと、プライベイトのこと、環境のこと、時代のこと、
さまざま語り合ううちに
研ぎ澄まされた意識に向っての話しになった。
高みを知ると
そこに到達していないものの姿が見えてくるし
その高みを目指したいと願ってしまうものだと
向かい合う懐かしい人は語っていた。
「真実に出会いたい」という
その人の資質が
小さな頃からご両親に育てられるうちに
こころに耕されたものであったことを
12年ぶりにして、はじめて知った。
いままでみえていなかったものがみえてくる。
ふと、この12年間に私のなかで気にかかっていること
まだ、12年前には話しを分かち合っていなかったあることを
思い出して、ある写真をお見せした。
「ね、この写真をご覧になってどう思う?
その後の12年間にね、頻繁に写し出されるようになった
ある現象なのだけれど、わーっと嬉しい気持ちや崇高な気持ちが
あふれているときにね、
フラッシュの光をあてると浮かぶ存在なの。」


写真をよーく見ているたたずまいがよかった。
そうしてそれから、ご自身が思うことをさまざまに聞かせてくれた。
この写真を通じて、実に興味深いことは
それぞれにこの写真を通じて感じたことを話してくださる
その人たちの反応とコメントの多様さだ。
「わーっ、すごい!」と喜ぶ人、
「えー、へんだよこれ、」と怖がる人、
「へー、なにこれ?」と驚く人、
「どれどれ、どうなっているの?」と熟考する人、
「ああ、これはねえ、」と説明をしてくれる人、
「なんなのこれ?」と説明を求めてくれる人、
「すごーい、きれい!」と感動する人、
「私も、知ってます!」と共有する人、
「これ、みんなにひろげたら、」と指南してくれる人、
それぞれがそれぞれに
この写真を通じて、その人そのものを伝えてくださる。
この現象が真に何を写しているのかは、
ぜひ、その由を知りたいとシンプルに興味惹かれるが
それだけにとどまらず
その写真を通じてさまざまなコミュニケーションが
うまれることにこそ、より大きな興味がある。
みえないものがみえる時
私たちはどのような語らいをはじめるのだろう。
しかも妙なことに、この現象波長は伝播する。
この写真を見て、ある種の感慨をもった人たちは
その後、その人たちも写しだしてゆく。
「私も写りました!」
そのような写真も何枚も見せていただくようになった。
このような写真は、この10数年間で膨大な量に至っている。
わーっと嬉しい感動の状況で意識が高まっているときに
この写像が現象となる。
先月サンフランシスコ出張の際に
ノブヒルのグレースカテドラルの前での一連の写真には
何か時機を知らせるメッセージのごとく写像が重ねられた。


そのうちに、少しづついろいろ調べてみた。
世界中で、そのようなことはやはり出来事としてあって
関心を持つ人たちが
ずいぶんと研究を大真面目に取り組んでいることも知った。
日本よりも海外の方が動きが速い。
また、さまざまにインターネット上でリサーチしてみると
それぞれの人のそれぞれの認識の仕方があることもわかってきた。
さらに、過去からのさまざまな文化やアートを通じても
みえないものをみていたのではないかと思えるばかりの
おなじような形態として描いている
意識的にも無意識的にも
その集合意識の発現をみることもできる。
だいぶサンプルが用意できてきた。
ちょうど、今年の初夏にアメリカでこの現象についての
はじめてのカンファレンスが行われる。
どのような人たちが集まるのか?
楽しみにでかけてゆく予定にしている。
みえないものをどのようにみているのか?
みえないものがみえるようになった時
私たちの意識がどのように変容するのか?
そのようなことを世界の人たちと対話を重ねてゆくことで
どのような未来への青写真が浮かびあがるのか
本年は楽しみなことである。
それは
あたらしくてなつかしい
なつかしくてあたらしい
そのような出会いになるのかもしれない。