Saturday, January 17, 2009

◎Explanation・Exploration

過去の説明ーExplanation
未知の探索ーExploration について考えてみる。

困難のアメリカの第44代新大統領に着任するオバマ氏が
フィラデルフィアからワシントンに向かう道程を
バイデン新副大統領と共にヒストリカルトレインに乗って
4日間かけて移動している。

オバマ氏自らが敬愛するという第16代リンカーン大統領が
1861年に就任宣言のためにワシントンまでの道程を
同じように列車に乗って移動した故事にならい
そのままになぞって原点の教えに戻るという意図があるという。

ボルティモアでのオバマ氏の呼びかけ
“RENEWING AMERICA'S PROMISE”の映像を見る。

現代のアメリカの状況は独立戦争の時と同じ
乗り越えるべきはたいへんな事態を迎えているが
解決は同じ。

理想をもって
心から外に向かって
あなた自身の声
あなた自身の意志をもって
あなた自身の物語を描くように
誰もが平等に
自律して歩んでゆくこと。

氷点下の中4万人の聴衆を前に
人種や思想を超えた連帯を通じ
共に一つの力となってこの難局を克服し
共に乗り越えることを力強くメッセージしている。

200年前にアメリカを創った人たちの
子供の子供の子供が
私たちであるということ。
だからこそ
そのスピリットをもって私たちが成せることのはずだと
勇気づける。

私たちの理想を追い求めること
私たちの次に約束されていることのために
私たちが生きるということ。

政治に私たち一人一人が参画して
アメリカを変えてゆくということ。
これからどのようなことが起きるかわからない
けれど常に正しながら進んでゆくということ。
政治のための政治ではなく
皆と共に政治を成し
生きるための責任を分かち合うということ。


その未来の理想の実現を自らが
天から約束されていることを信じ
自らが約束することの力強いメッセージを通じ

“Yes, We Can!”という未知の可能性の探求のために
“We Are One!”という現在の人心をつなぎ
“We Are the Future!”という子どもたちの心を育む。

1776年7月4日フィラデルフィアに建国の父が集まり
米国は英国からの独立宣言を行なった。
その233年前にアメリカで起きた独立の意味を
独立をするための戦いが目的ではなく
理想を実現するためのプロセスであったことを
現代の民衆に説いている。

基本的な精神は

all men are created equal
and that they are endowed by their Creator
with unalienable rights
to life,
liberty,
and the pursuit of happiness.

人は生まれながらにして平等であり
すべての人は
生命、自由、幸福の追求
これらの権利は創造主より
侵されざるべき権利を与えられている
人は生まれた時にこれらの権利を有しており
何人からも与えられるものではない。
その精神をオバマ氏は聴衆に静かなる熱意で投げかけ
一人一人の心に呼び覚ますかのように見える。

これらの独立自尊の精神は
決して単なる個人主義ではありえない。

またこれは何ら欧米に学ぶことのみではなく
昨日まで考えて来た江戸時代の『心学』
明治時代の『学問のす﹅め』を通じても
慎み深く丁寧に生きる事の教えとして
含まれてある本質そのものだと気づく。

福沢諭吉が西洋事情でいち早く独立宣言文を紹介したから
その後にその内容に傾倒した訳ではなく
当然のことながらそこに本質を読み取っていたことの
『独立自尊』の尊い精神に学びたい。

日本憲法が改憲を行なうことへの賛同の中に
その内容は現代に添い合わず
戦後米国から押し付けられた米国に都合のよい内容だからという
一方的一様なる浅はかな見解を目にすることがあるけれど
果たしていかがなものなのだろう?
本質的な『独立自尊』を原点とした
更なるよりよい代替がはっきりと見えない。

日本江戸期の心の学問に立ち戻り
あらためて私たちの本質的な生きる力を辿ることも
必要なのではないかと考えずにはいられない。
それが何ら現況と変わる事のない本質の重なり合いに
気づくこともあるだろう。

何事もただ変えなくてはならないということではない。

時代に応じてどのように変えることがふさわしく
それが未来にどのように好ましい影響を波及させるものかを
とことん卓見しなくてはならないだろう。

本質を尋ねる。
本質を見抜く。
本質を貫く揺るぎない精神の在りどころを現代に探りたい。

変える前に帰るべき道を辿る
還るべき還元の道理を忘れることのない知性を見失わないように。

フィラデルフィアの市庁舎の尖塔は
ウィリアム・ペンの像。

敬意を込めて撮影した際にその尖塔にOrbが頻出。
その地への敬意の心証として。


この歴史ある市庁舎の造りは
ピラミッドをつくった職人にならい
釘を一本も使わない特別の石造り建築であるときいて驚いた。
この時には部分的な修復工事に手が入れられていて
光のフォーカスをはずした暗い箇所があったけれど
その丁寧な修復の仕事に愛の光を感じさせられた。

反対側の向いに建つフリーメイソンの教会も
この時には工事中で外壁に囲われていたけれど
遠方からの高みに美しいローズウィンドウが見える。




この街は歴史を愛している。
その所々に歴史の証明として過去の説明を欠かさない
丁寧な心の姿勢が明されている。





人の意識から忘れ去らせてはいけないこととして
過去の偉人の偉業や物語をどのように継承するか。
今の日本に欠けてしまった物事で
他国の庭に学ぶことは多い。

歴史ある市場にて。









必ず過去の歴史の説明が添えられるのは
過去の歴史への敬愛のしるしなのだと理解できる。

歴史ある市場の美しさを言うならば
シアトルや
ヘルシンキや
ニースや
カンヌや
イスタンブールや
世界中に多様な香りや色や物語を残す場所の記憶があるけれど
日本であれば
京都の錦市場や東京の築地市場となるかしら。

けれども築地の市場存在は今や変わりゆく風前の灯。

東京都の施策が
そのような無理無為なる何ら問題意識を擁さない場の記憶への
無知なる考え方には甚だ疑問を感じる。

果たして新銀行東京の失態もどのような理解に及ぶのだろう?
虚像ヴィジョンのパワーだけのリーダーシップに
心ある実学が伴わない。

何も築地市場の歴史を閉じなくても
歴史価値と未来への相続価値への視座・視点・視野から来る
世界評価の文化価値継承について
本質的な知性を問えたならいいと願う。

Friday, January 16, 2009

◎Action・Fiction

ある仕事の行動計画を立てている。
人の意識が昂揚し幸福感に満たされることをゴールに
どのような行動が計画されれば良いのかを考える。

昨日一考した『石門心学』の祖
石田梅岩の教えは
元禄・享保の時代にあって
庶民教化の道を拓き社会浄化の教えを説かれた。

元禄時代の町人・商人が次第に財力を経て奢侈流行に走り
平民文学や演劇が盛んになって
井原西鶴による好色本が歓迎され浄瑠璃が盛んになり
歌舞伎役者が繁盛を極めた時代。

その爛熟は一方で世相の弛緩やゆるみとなり
それをつぶさに見届けた梅岩は道義の徳化へと進む。

徳川時代の後半期に興されたこの社会的倫理運動が
その後の日本の教育史上に与えた大きな影響を
集合意識の連綿とした働きの中で
明治開花の『学問のす﹅め』にても読み取れるように思う。

較べ気づき学ぶ。

梅岩は「孟子」のいう
「心をつくして性を知り
 性を知れば天を知る」という語をしばしば引用している。

「性を知る」とは
性とは万理万象の本体、本心、本質を言い
性は天理・天意・天命を指すとされる。

そこに「絶対恭順」「絶対随従」の覚悟をもって
この一心一理への信頼を得ることで
日常の実行実践が無理なくしやすくなると説く。
まず心から行いへ。
中間に性知への確認自証があって
そしてその自証から実行へと実践を極めて行くことを
示唆される。

またそのためには梅岩は
『しまつ(倹約)』と『しまり(統率)』を言う。
つまりは無駄を省き
放縦・散漫を避けるようにと教える。

天の理・天の躾を作法として守り従い
天道を外れずに安寧を得ることを教える。

天理を信じ
天意を悟り
天命を拝す  ということ。

これを商人の実践道として証したのが以下の要点。

1.商人といえども聖人の道を学ぶべきこと
2.利益優先に走り暴利をむさぼらないこと
3.お得意先はもとより仕入れ先にも誠意を尽くすべきこと

本居宣長のもとに参集した商人の旦那衆が
その時代のあらゆる贅や色を尽くした後に
「学問とは何と趣きに満ちたものでしょうか」と
生涯学習への魅力に余生を惹き付けられたという話しも
思い出される。

その人品や地位向上に注ぐ気概と正義感は
ものごとの本質を貫く問いと学びのなかにあるのだと
あらためて深い呼吸をする瞬間。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。
 されば天より人を生ずるには
 万人は万人皆同じ位にして
 生まれながら貴賎上下の区別なく
 万物の霊たる身と心の働きをもって
 天地の間にあるよろずの物を資り
 もって衣食の用を達し
 自由自在
 互いに人の妨げをなさずして
 各々安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。
 されども今広く人間世界を見渡すに
 かしこき人あり
 おろかなる人あり
 貧しきもあり
 富めるもあり
 貴人もあり
 下人もありて
 その有様雲と泥との相違ある似たるは何ぞや。
 その次第甚だ明らかなり。
 実語教に人学ばざれば
 智なきものは愚人なりとあり。
 されば賢人と愚人との別は
 学ぶと学ばざるとに因って出来るものなり。
 また世の中にむつかしき仕事もあり
 やすき仕事もあり。
 そのむつかしき仕事をする者を
 身分重き人と名づけ
 やすき仕事をする者を
 身分軽き人という。
 すべて心を用い心配する仕事はむつかしくて
 手足を用いる力役はやすし。」

「学問とは
 ただむつかしき字を知り解し難き古文を読み
 和歌を楽しみ詩を作るなど
 世上に実りのなき文学を言うにあらず。
 これらの文学も自ずから人の心を悦ばしめ
 随分調法なるものなれども
 古来世間の儒者和学者などの申すよう
 さきまであがめ貴むべきものにあらず。」

「されば今かかる実なき学問は先ず次にし
 専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。」

「一科一学も実事を押さえ
 その事に就きその物に従い
 近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。」

「人間普通の実学にて
 人たる者は貴賤上下の区別なく
 皆悉くたしなむべき心得なれば
 この心得ありて後に士農工商各々
 その分を尽くし銘々の家業を営み
 身も独立し家も独立し天下国家も独立すべきなり。」

「学問をするには分限を知ること肝要なり。
 人の天然生まれ附きは
 繋がれず縛られず
 一人前の男は男
 一人前の女は女にて
 自由自在なる者なれども
 ただ自由自在とのみ唱えて
 分限を知らざれば我侭放蕩陥ること多し。
 即ちその分限とは
 天の道理に基づき人の上に従い
 他人の妨げを成さずして我一身の自由を達することなり。」

究理学という天地万物の性質を見て
その働きを知る学問が息づいていた時代。

「自由と我儘との界は
 他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。
 譬えば自分の金銀を費やしてなすことなれば
 仮令い酒色に耽り放蕩を尽くすも
 自由自在なるべきに似たれども
 決して然らず
 一人の放蕩は諸人の手本となり
 遂に世間の風俗を乱りて
 人の教えに妨げをなすがゆえに
 その費やすところの金銀は
 その人のものたりともその罪許すべからず。
 また自由独立の事は
 人の一身に在るのみならず
 一国の上にもあることなり。
 我日本はアジヤ州の東に離れたる一個の島国にて
 古来外国と交わりを結ばす
 独り自国の産物のみを衣食して
 不足と思いしこともなかりしが
 嘉永年中アメリカ人渡来せしより外国交易の事始まり
 今日の有様に及びしことにて
 開港の後も色々と議論多く
 鎖国攘夷などとやかましく言いし者もありしかども
 その見るところ甚だ狭く
 諺に言う井の底の蛙にて
 その議論取るに足らず。
 日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて
 同じ日輪に照らされ
 同じ月を眺め
 海を共にし
 空気を共にし
 情合相同じき人民なれば
 ここに余るものは彼に渡し
 彼に余るものは我に取り
 互いに相教え互いに相学び
 恥ずることもなく誇ることもなく
 互いに便利を達し
 互いにその幸を祈り
 天理人道に従って互いの交わりを結び
 理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り
 道のためにはイギリス・アメリカの軍艦をも恐れず
 国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てて
 国の威光を落とさざるこそ
 一国の自由独立と申すべきなり。」

引用がとてもとても長くなったが
今やこの精神論は現況の日本にいたっては繋がりにくい。

その後の右左に分化する日本文化人の思想が
江戸ー明治に開花した『天・地・人』の思想の純度を
遠い非現実のフィクションのようにしてしまった。

けれどもどうだろう?
果たして後に人は幸せになっただろうか?

幸福ということについて考える。

私たちは在るべき姿にあることを覚悟したときに
無性の幸福にあずかるのではないだろうか。
何がその本性の根幹にあるかどうか。

その原初に戻って
フィクションならぬアクションの意義
その人の行動の根幹を成すものを読み取る力が求められる
そのような時代の価値変革へと
真価が問われるのではないかと考える。

アメリカのオバマ新大統領が間もなく20日に就任する。

オバマ新大統領には
『心学』や『学問のす﹅め』に学ぶ実学の行動を思う。

時代の流れが必然として
天道に照らして
オバマ新大統領のような
常に真を問う誠実なる政治家を生み出すこととなった。

シカゴの貧民街をまわり
日々その生活保護と健康保護に心痛め
どのようにしたら人々の生活がよりよくなるのか
真剣に考え抜いた心あるコミュニティビルダーが
その実践から選択したことは
政治が変わらなければ人々の生活が変わらないということ
そのために自らができることの選択だったという。

今アメリカ全土から
オバマ新大統領の就任演説に立ち会いたいと願う国民が
何日も前から何万とワシントンに参集しつつあるという。

その純度と熱意を私たちは尊敬と共に
まぶしく感じる力がなくてはならないように思う。

http://ufomagazine.squarespace.com/sightings/2008/11/10/orbs-at-obama-victory-rally.html


上記は選挙に勝利を得た日のオバマ氏の演説会場の写真。
ビデオ映像でオバマ氏の演説を見たが
そこに写るオバマ氏もファミリーもそのステージを囲む人々も
皆が一体となって新たなことに向かおうとする
純度の高い澄んだ志に満ちて感じられた。

この場でオバマ氏は
選挙戦のおきまりである互いを中傷誹謗する戦いのなかで
自らもその過ちにはまってしまったことの振り返りと
それは繰り返してはらない過ちであったと反省を述べていた。

ゴールは真に一つであることを考えれば
そのための最善を説き合うべきであるという潔さが
人の心を打つ。

心から行いがあり
そのプロセスの中間に
本質的意義を問い直す知への確認と
自らの実証があって
そしてその自証から実行へと
実践を極めて行くことの覚悟に
社会意識の真価を問う。

オバマ氏の一連のアクションには
時代の意識の進化を感得できるものだ。

それはキング牧師の演説を連想する
新たな時代の幕開けを予感させる
人心を掴む冷静かつ力漲るスピーチだった。

聴き手の老若男女が感涙と共に頷き
共にその場に同じ精神の周波数に共鳴しているかのように見えた。

この無数のOrbsが意味するところを考えて来た。

人の意識の昂揚と祝福が
人の意識の新たな開明を生み出すことに学びたい。

人一人一人が内にいだく尊厳と可能性を
心の高揚と幸福感から引き出されることの実学を願って。

Thursday, January 15, 2009

◎Rule・Tool

昨日久しぶりに一連の写真を振り返った
サンフランシスコの丘
ノブヒルのグレースカテドラルの写真の一連が懐かしく
丁寧にその動きを追っているうちに
ふと以前にも経験したような追憶。
ああそうだったと連想して思い出した一連の写真。













葛西の臨海水族館で出会ったクラゲを撮影。

クラゲは
海月とも
水母とも書く。

月夜の海に浮かぶOrbや
母なる大地の草草ひとつひとつに浮かぶ水滴としてのOrbに
連想が重なる。
海中での動きは実にユニークだ。

ある日ある美術館の水槽の中にもクラゲが泳いでいた。

サーモスタットからぷくぷくと沸き立つ小さな気泡に乗って
水中上昇するのが楽しいらしく
そのような意図が読み取れるような
一連の運動を繰り返し繰り返し行い
浮上してはまた水中に潜行し
空気の泡に乗ろうと背骨のないクラゲが
ふわりふわりと自由自在に泳ぎ回る。

しばらくの間クラゲの動きから目が離せなかった。
そのような性分は子供の頃からのこと。
Orbの自在な動きから目が離せなくなったとしても
許されるかしら。

ただ思想や思考の背骨はしっかりと通しておきたい。

今日は所用あって慶應義塾大学へ。
青空がどこまでも広がり陽光が溢れるキャンパスが清々しかった。

久しぶりに『学問のす﹅め』を読む。
初編・初版は1872年。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。」

明治の人心を啓発したその著名な文を一読すれば
平成の人心に警告ともなる一筋の真理を解する思いがする。

福沢諭吉先生(1835-1901)が説かれた独立自尊の本質的意味を
自らの心に問い直す自然(じねん)の好日。

Orbについて考える程に
そのような伏線に至ることが実に多い。

日々の営みや仕事は
Rule(あるべき約束ールール)
Role(あるべき役割ーロール)
Tool(あるべき道具立てーツール)を考えるように教え戴いたのは

松岡正剛先生の編集学校でのこと。
もう何年も昔のこと。

『学問のす﹅め』を契機として
あるべき約束と
あるべき役割を学ぶ自然悟道の『心学』のことを考える。

石田梅岩の『心学』に想い至る。

広辞苑をひいてみた。

ー 心を修養する学問。程朱学・陽明学の類。
  江戸時代、神・儒・仏の三教を融合して
  その教旨を平易な言葉と通俗な喩えとで説いた
  一種の庶民教育。
  修練のためには静座などを重んじ
  社会教化には道話を用いる。
  石田梅岩(1685-1744)を祖とする石門心学にはじまり
  手島堵庵・中沢道二に伝えられ
  さらに柴田鳩翁に至って大いに拡張され
  一時は65カ国、149の講舎を所有 ーとある。

庶民の『実学』『実業』のための『心学』があった江戸時代。

松岡先生も『千夜千冊』で
石田梅岩の『都鄙問答(とひもんどう)』を挙げて
その「手前ヲ埒アケル」精神についてかつて語られていた。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0807.html

遠くの大いなる神をおき
近くの人の心を探る。

『人性』なるものの内に幾重にも重なり合う積層構造を
ほどいて解き明かしてゆく心の学び。

「心ヲ知ル」ことを「発明」とも言う。

自分自身を発明するということの学問
『心学』の意義を少し研究するなら
世界の暗闇に明りを発することであるということの意義に
立ち返ることもできるだろう。

『The Orbs-Japan.com』写真集では
Orbとの邂逅をツールとして
そのような心の根幹に触れ行きたい願いを込めたのだけれど
まさに雲母のように一枚一枚を薄く透過してゆくことから
触れ得るものへの想像を辿ったところまでのこと。

写真は現前としてそこに存在するが
伝えたいと願うことの
言葉にならない言葉に向かうことの
厳然と立ちはだかる目の前の壁に
ほとほと打ちのめされそうになる。

完結にあらず
未明にあって
心の旅の途中にある。

一つ一つを日々のBlogに託す。

◎Rule・Role

佐藤可士和さんの編集的仕事術について聴講する。

http://kashiwasato.com/?

佐藤可士和さんは自ら手がけられたプロジェクト履歴を
そのアートディレクションで展開された色の一覧で
再編集されている。

ユニクロのリブランドとしての世界戦略を
どのようにニューヨークを旗艦に大成功に導いたか?

立川にある富士幼稚園園長さんが抱くヴィジョンと夢を
どのように魅力ある教育の現場へと実現させたか?

その卓越した実際の現場事例を一つ一つ丁寧にひもとかれ
そのご自身のルール(約束)について
熱意をもって明かしてくださった。

手元のメモを再編集して以下にまとめてみたい。

ルールその1。
本質的意義を見失わない。

ルールその2.
すでにあるリソースを徹底分析する。

ルールその3、
常に情報を整理整頓する。

ルールその4.
正直であること。

ルールその5.
依存しないということ。

お話を伺っているうちに佐藤可士和さんという方は
実に嘘のない人でいらっしゃると感じた。

真直ぐ。
そして
潔い。

所期の本質的目的からけっしてぶれない実直さは
まっすぐに垂直に思想の根幹を支えている。

頑固ということではなく
自らの最初のインスピレーションを
とても信頼していらっしゃるのだと感じた。

その潔さは
常に考えて考えて考え抜いているからこその
エッセンスとしての一滴の迸りゆえのこと。

編集とは削ぎ落としてゆくことなのだと
あらためて原点に還る。

本質を見失わないためには
どんどん飽和してゆくものを
どんどん漉いてゆく必要があるのだということを
あらためて思い出す。

そうしてVIが研ぎ澄まされてゆく。

佐藤さんのお話を伺っていると
常にクライアントの立場に立っていることがわかる。
自分勝手なおごりがない潔さ。

それはご自身の美意識から生まれていらっしゃるのだと
佐藤さんのレクチュアを伺っていて実感した。

美しいものを生み出す人は
美しい精神性をやはり携えていらっしゃるのだ。
もしくは本質的に
美しいものに向かおうと日々努める人は
美しい精神性を携えることと同義であることだ。

どのようにしたらプロジェクトを成功に導けるかを
クライアントの中にある情報を引き出し再編集して
すでにあったものをピカピカに磨き直して
丁寧な差し出し方を配慮なさっている。
その仕事に対する約束の流儀を学んだ。

そのようなアートディレクションのロール(役割)は
まさに力ある技能集団を指図してゆくことと共に
一方で日本を世界にどのように伝えるかという
日本人として国際人としてのロールも担っておられる。

中小企業庁のジャパンブランドプロジェクトの一環で
今治のタオルをデザインしていらっしゃるとのこと。
伊勢丹が連携し
1万円から2万円の高いタオルを創ってくださいという
オファーがあったとのこと。
もともとタオルは買うよりももらうことの方が多いという
日本風土の昔からの週間流儀の中で
より安く設計してくださいというのではなく
より高いものを設計してくださいという依頼から
実現したタオルはサイトでも展開。
1100%という売上げ数字を記録し
百貨店の売りの現場でも
実際に高いものから売れてゆくというリアルな現象があるという。

時流をつかみ実に豊かな仕事を約束している
日本発国際人感覚の心意気と教養と美意識に
おおいに学ばせていただいた愉快かつ爽快な夜。

Orbは国際派になれるだろうか?
日本初の写真集は
日本発世界行きという願いを込めて
The Orbs-Japan.comというタイトルで
所期の目的を立てた。

海外で開催されるOrbに関するカンファレンスに参加してこそ
日本ならではの美意識が解くべきOrbについて実感してきた。

「うつろい」や
「よりしろ」や
「すずなり」や
「やおろず」の
日本ならではの概念こそが解いてゆく領域があるのではないか。

2007年12月に
サンフランシスコのノブヒルにあるグレースカテドラルでの撮影。
Orbのふるまいを考える上での参考として
少し枚数が多いのだけれど
いつの日かためになることのために
一連の連続撮影記録を添えておきたい。








当日は雨が降っていて
サンフランシスコ郊外のノバトに住む
ペニー・ピアスと会って
ハイウェイを車で運転してダウンタウンに戻る途中
ふと思い立って立ち寄ったときの一連の撮影。

宗教の境界線を超えて
人の寛容なる心の涵養を目指す
グレースカテドラルの教義には
昔から学ぶことが多かった。
クリスマスが近づくカテドラルの外壁が雨のなかで美しく
感動をもってフラッシュ撮影をはじめたところから
一連の写真撮影となった。




































この一連の撮影詳細については
『The Orbs-Japan.com』写真集の解説に記した。

天候は変わらないが
連続撮影の後に
やがていつものようにOrbはまったく写らなくなったのだった。

ペニーがOrbのことをずいぶん早い時期からずっと言い当てていた。

「目に見えない存在が何をメッセージするのか
 よく考えてみて。」

そう投げかけられて
「何か大切なことに気づかなくてはならないって
 語りかけられている気がする。」
そう即座に答えた。
でもいまもなお
その大切なことをずっとずっと考え続けている。
考えて考えて考え続けたその先に
待っているかもしれない知の光明との出逢いを待っている。

その探索の本質的意義を見失わなわないためにも
すでにあるリソースを徹底分析するために
情報を整理整頓を心がけ
正直であり
ご都合に依存しない常道を軌して
その姿勢を保つものでありたいと願う。

Wednesday, January 14, 2009

◎Number・Member

数秘術では
1から9と0の数字に意味を与えていて興味深い。

1はあちらの違う次元から一点こちらに向かって来る
原初・原点・オリジン。
ゆえに誕生という意味を持つ。
自分という意味もある。
モチベーションにあふれやる気が高まると同時に
自分を定義することへの意欲もある。
何か新しいスタートを意味している。
種子が土の中にあって光に向かって出てゆこうとする段階。
シンボルは ・ という一点。

2は両極をあらわす。
種子が光の方に芽を出したところ。
シンボルはインフィニティ∞という互いにひきあう形。
1から分化して他者を認識できる位置づけにある。
これは波が派生するということでもある。

3は相反する両極を繋げてゆく作用をもつ。
2の二点を更に3番目のポイントの視点をもつことで
2点を客観視することができる。
シンボルは三角形 △ 。
頂点から両裾野の二点へ視点を注ぐ。

4はTime & Space。
三次元的基本構造となり時間と空間のグリッド。
シンボルは 十 。
生命の基本的構造を成すとされる。
3で啓示を受けて4でリアリティに変化させてゆく。
固体物体が生まれ測定ができるようになる。

5は動きが出て来る。
五感で刺激を受けてアウトゴーイング。
外側へと働きかけて動き出す。
シンボルは五芒星。

6は3の二倍。ダビデの星がシンボル。
天と地をみつめ
天と地をつなぐ。
それにより何の二極性も相反も含んで
一体であること調和へと働き出す。

7は内的スピリチュアルな次元と現世界をつなぐ。
ここで魂の目的が顕現されて
高次の知識へと向かおうとする。
シンボルは上から見たピラミッド。
土台が4の四角形 □ 中に × が包括され
横からが3の三角形 △ を成している。

8は高次元の秩序とされる。
宇宙法則に従って組織や形態を現実化させる数字。
シンボルは□の中に十がおさまる 田 の形態。
高次のパターンをマニフェストする。

9は物理的次元を手放すとされる。
集合意識と一体となる。
個人の個としての ・ の一点と
集合意識 ◯ が一体化して
 ◉ のシンボルとなる。

そして
0は無意識の自我。
空であるとされる。
全であり空でもある。
しかし形がない。
自らの知らない領域。
自らが知ることができうる知りえないところ。
まったくの空の概念だという。
シンボルはまさに ◯ 。

以上が1−9 もしくは 0という
誰もが意識進化を繰り返してゆくステップだと考えられる。
友人のペニー・ピアスに教わった。

人には意識成長のサイクルがあって
まず自らに気づきー1
そして他者を知りー2
そこから感覚を震わしてー3
形を成してゆくー4。

ここまでが一巡りでその先にジャンプする。

更に広い領域へ動き探索しー5
それらを統合しようとするー6
それを通じて真実を見極めー7
さらに高みの次元の組織化・物質化へ進むー8
それを成し遂げて物理的次元を手放して他者と一体になるー9

そしてまた新たなスパイラルの1に戻り9までを辿ることになる。

0はその脇にあって更なる高みへ。
無自覚の自覚を支えるのだ。

それぞれの数字には陰陽・光と影がある。
基本的に偶数は女性的で奇数は男性的と見る。
奇数は外に出て活発化する数字で
偶数は統合したり凝縮してものを作ろうとするもの。
男性性の社会性と
女性性の家庭性と
そのイメージは重なりあう。

更にペニーはそこに
BE - DO - HAVEという
トライアングルの成長プロセスも教示してくれた。

Beはものごとに対するスピリットが存在する
トライアングルの頂点。
そこから動的インスピレーションを得て
皆創造活動をはじめる。
頂点から三角形の右側底辺へと動き出す。
それが Do 。

Doは意志力、マインドの一部で形を得る位置づけ。
イマジネーションやヴィジョンが働き
その先見を形にしようとして行動に移す。
エネルギーをリリースしてアクションにつなげる。
それにより絵を書いたり
お金を得たり
ベビーや創造物を得たりする物質化が行なわれる。
三角形の底辺右側から左側へと移行し Have となる。

ここで用心深く
気をつけなくてはならないことがある。

多くの人は得たものをまた得ようとして
やったことにまた戻ろうとしてしまう。
意志力を使って
Do と Have を行ったり来たり
繰り返しを行ない始めてしまう。
そうすると意志力だけで回しているので
スピリットが薄れてしまい
Beという本来の存在意義が乏しくなり
自らが疲弊してしまう。
エネルギーがリークして創造のサイクルを
忘れてしまいかねなくなるのだ。

だから創造のサイクルでは
最初のスピリットに従い創造したものを得たら
次にしなくてはならないことは
放つ - サレンダーするということが重要だ。

行動することをやめる。
所有することをやめる。
手放す。

それによって 創造・進化のサイクルの頂点
インスピレーション豊かな源泉へと
立ち戻れるようになるのだ。

Do と Have を繰り返しているうちに
どうしてこんなことをしているんだろうと
わからなくなってしまうから
Haveまで到達したらモチベーションがなくなって
その先に進めなくなることがある。
そこで意図的に
Return to Being
自らの存在に立ち戻るということに向かわなくてはならない。

そこに
9というナンバーの物理的物質概念を手放すことができればよいが
Void (空) という何も持たずに跳び放つということの
未知への恐れから
人はなかなか Be への跳躍を思いきれないものでもあるという。

でも
VoidからBeへゆけると
再びエネルギーが戻って満ちあふれてくる
創造のサイクルがまた新たに巡り始めるという。

ペニーは直観力カウンセラーとして
その卓越した分析力と予見力から世界中にクライアントを持っている。

ペニーの言葉はクライアントと向かい合って語る中に
的確な未来予知を含んでいる。
しばしば2年から3年先のことまでをペニーは的確に言い当てる。

日本に来日する際にはコーディネートを依頼されるので
リピートしているクライアントの方たちとも
よくお話させていただいたものだ。
皆さん「どうしてペニーの言った通りになるの?」とおっしゃる。

ペニーははじめにクライアントの生年月日を尋ね
数秘術のシートに書き入れて
その人がその誕生日を選んで生誕してきたということの意味を
3つの数字の並び方で
人生の展開シナリオについて数字が語る知見を示唆をする。
人それぞれに生まれて来たことの動機と目的の必然があるのだと
ペニーは解説する。

1.どうして人生の中でそれを動機とするのか?
2.それをどのように外にあらわしてゆくのか?
  外から人が読み取る表現スタイルや人生の形式。
3.それによる自分にとってのチャレンジはなにか?
  自分がよくわからないことについて
  その時機に学ばなくてはならないこと。

ライフナンバーはライフレッスンをも示しているのだとする。

生年月日を通じてガイダンスを得ると
その後はペニーは目を閉じて深く深呼吸をすると
クライアントと向かい合い
そのクライアントが発する周波数から
ヴィジョンを読み取り
直観で得られたことをあふれるようにとめどなく
語りかけて来る。
時折クライアントの質問に応じても
的確な回答を示す。

その様子はテープレコーダーにすべて録音して
90分のセッションを納めるので
クライアントは後で幾度もそのテープの内容を
繰り返し繰り返し聴き入ることができる。

そして2−3年すると
ペニーが読み取った人生の流れを確認して
皆、驚き
「どうしてこんなにあたるのですか?」という
質問を寄せられるという次第。

ペニーに尋ねると
「統合された認識領域ーUnified Field にゆけば
 そこにいつでも答えがあるのよ」と
朗らかに笑って答えるばかり。

私自身もペニーに導かれたことは大きい。
最初に出会ったのは16年前になる。

いつでも何かの必然に守られているというような
そのような意識は
自らの自然体を促してくれるものだ。

そのようなナンバーが導く
同じ集合意識を抱くメンバーといつしか出会い
共に創造に向かうだろうと
ペニーがかつて示唆してくれたことを覚えている。

何かに導かれるということ。
何かが導いてくれているということ。
そのような実感を思うことがある。

Orbはよく頭上に写ることがある。

例えば以下の写真。



この写真はパリのジョルジュサンクそばの一角で。
2001年暮れに撮影。

そしてこちらの写真はサンタフェのシアター内で。
2008年初頭に撮影。



それぞれの写真の上をクリックしていただくと
写真が拡大して
それぞれのOrbの形態のより詳細まで
確かめていただけるかと思う。
較べてみていただきたい。

撮影カメラも異なり
時間空間も異なるが
何とも同じような存在のように目に映る。

これは何を意味するシンボルなのだろう?

共通しているのは
心弾ませている時であること。

また他にも司会など集中した意識状態の時に
頭上にOrbが浮かんでいる写真がよく撮れている。
銀塩写真時代のこと。

更に最近では他の人の頭上にも
その人が楽しんでいる時によく顕著に写っている記録もある。

それはどのくらいの確率でその位置に浮かぶのだろう?

私たちを導いてくれているスピリットメンバーの存在のことを
私たちの存在と同じぐらいリアルに
時折考えることがある。

かつて南インドの聖人のアシュラムを訪れたことがある。
導かれて気づいたらその地に赴くこととなり
さまざまな不思議な思い出を体験した。

毎朝プッタパルティの聖域に明け方未明に入り
セバ(奉仕)をされる人たちの指示に従い
「あなたはこちら」「あなたはそちら」と振り分けられ
広い祈りの講堂内に着座して
朝日が昇るのを瞑想して待つ。

ある朝どうしてもその場に居て
周囲の空気が重くて呼吸がしにくい。

その場を立ってエントリーし直した。

再び入り口から「あなたはこちら」と指示されて
前の人たちの列に続いて並び歩く。

そして着座したところは
何と最初に案内されたところとまったく同じ場所だった。
左右と前後の景観の目印から確かに同じ場所にあることが明白だった。

もちろん周囲の人たちのメンバーは入れ替わっている。
たったいま前後に共にエントリーした人たちと共にある。
それなのに座る場所は全く同じ場所だという事実。

それは一体どのようなことなのだろう?

自由意志をもって
自らが立ち上がり動き直しても
結局は絶対運命の場所が用意されているのだということを
瞬時に悟る出来事だった。

そして尚不思議なことは
着座し直した同じ場所であるにもかかわらず
今度はまったく打って変わって
明るく清々しい陽気に満ちていた。

心地よく集中して瞑想していると
とんとんと右肩をたたく人がいる。

その場では静寂が約束されている。
言葉を交わしてはならない。

「?」と無言のままに
その場に着座している隣人の目と目を合わせると
彼も無言のままに
私の後方の明け方の空を指差すのだった。

静かに振り返ると
薄明の東の空に
オレンジ色の光がジグザグと浮遊している。

そのようなこともあるだろうと不思議と落ち着いた気持ちで
彼に笑顔を向けてうなずくと
彼もうれしそうにうなずいた。

そしてまた静かに瞑想に戻ったのだった。

世界は必然と学びにあふれている。

Tuesday, January 13, 2009

◎Think・Thank

少し考えると
感謝でいっぱいになることがある。

どうして心臓は動きつづけているのだろうか。
どうして空気を呼吸しつづけることを
私たちの身体は忘れることをしないのだろうか。
どうして春が来て夏がきて秋冬を迎え
そしてまた春が訪れて恵みを与えてくれるのだろうか。
どうして人は忘れずにお互いのことを思い合ってくれるのだろうか。

子供の頃からそんなことを考えて来たのは
性分だから仕方ない。
大人になっても
未だこうして考えることが変わらないのは
進歩がないことの証左だろうか。

ただ歳を重ねてなお一層
「生かされている」ということを思う。

IKU という響きには

「生く」と
「逝く」があり
その間に
「育」に
「行く」がある。
教育ということは生きることについて
教えを乞うことが原点でなくてはならないのだと考える。
人のエネルギーを昂揚させ
人が内に秘める
元気を奮わすものでなくてはならないのだと気づく。

IKI という響きには

「活き」があり
「息」があり
「意気」があり
「域」があり
その間に域
「粋」に
「生き」がある。
生粋ということは生きることについて
許しを乞うことが原点でなくてはならないのだと気づく。
人のエネルギーを純化させ
人が内に秘める
精神を澄ますものでなくてはならないのだと考える。

日常のことごとに追われていると
元気を衰えさせてしまったり
純度を鈍くさせてしまったりすることがあるのは
なぜだろう?

自らの領域ということがある。
お互いに守り守られたい領域
境界線があるのだということをこの頃考えることがある。

自分ということを手放してしまえば
自分という領域の限界を超えて
他者と重なりあい・繋がりあい・相補性を満たして
限界を超える不確定性へと進化するだろう。

そのようなことは1960年代のフラワームーブメントに始まる
ニューエイジブームが
戦争で疲れ果て傷ついた人の心の限界領域を超えて
救済としての集合意識へと導こうとしたのだったと振り返る。

世の中の流れの中に私たちが生かされているのだと考えれば
その時流の変化をも
オポチュニティと捉えて
それまでの限界を超える可能性や機会と看做す考え方も
一つあるだろう。

後になってその取組みが
時代精神の救済となっていたというような
感謝でいっぱいになるような互恵を確認できたなら
ほんとうにのぞましいのだけれど。

環境問題について真剣に考える機会が与えられる時代。
エコロジーという言葉は
つながり・相互作用のことを言う。

原因と結果がある因果を
どのようにして解き
どのようにして未来を創造すればよいかを
産業も科学も社会も学校も家庭も考えるようになってきた。

地球という母なる星の自然の恵みに感謝することから
人間の知恵が鍛錬されてゆくような時代を迎えたことは
一方で人間の優しさや慈しみの心が浮上する好機でも
あるのだと思う。

これまでのあたりまえと思い込んでいる概念が
これからはこのようなこともあると
あらたな概念へとシフトする。
そのような一つ一つのかすかな動きを見逃さないように
この時代の変化の中に生かされていることに感謝を込めて
丁寧に一歩一歩努めてゆきたい。

気にいっている一枚の写真がある。
セドナのエンチャントメントで撮影した。

ある朝の静かに清澄な空気の中を歩いていたら
煌めく微かな光に目がとまった。



セドナ特有のレッドロックスにひとしずくのたまゆらが輝いていた。

大自然の力をはじめて自分の人生で実感したのは
18年前にアリゾナのセドナの地に導かれて旅した時だった。
大自然の懐に包まれることによって
自らの精気が再生する聖地があるのかと
価値観の境界線が融けて行ったのだった。

後になってネイティブアメリカンがこよなく尊んでいる
人類の精神のルーツともされる聖地であることを知った。

その土地に偶然にも導かれたことで
それまでの人生のさまざまがあってのことと考えることができて
それまでのすべてに感謝でいっぱいになることができたのだった。











そのセドナでは
これまでにもBlogに記してきたように
Orbとの邂逅は数限りないが
セドナで第一回目のOrbカンファレンスが開催された際の夜
アヒル君たちとの接触を通じてのOrbコンタクトは
実に興味深いものがあった。

その一連の写真。

モネの絵画にあるような美しい柳が揺れる池があり
その畔でアヒル君達が夜半に寛いでいた。

そっと近づくと突然に
クワックァッっという声がどのアヒル君からともなく
あがりはじめ大合唱。
クァーッという盛り上がりの最中に最多のOrbが撮影され
やがてまた静寂に戻ったひととき。









Orbがアヒル君たちの声に反応したのか?
アヒル君たちがOrbの到来に反応したのか?

無為自然なる荘子の胡蝶の夢のように。

量子力学で言われる観測問題と重ね合わせるのは
神聖なる数学の問題領域に対して
あまりにも不遜すぎることかもしれないが
それを見ることの観測によって
それまでの実在が変化するということの
既知から未知への世界が広がることに興味は尽きない。

そのあわいのなかに
確かな交流を思い考える幸福。

Monday, January 12, 2009

◎Rewrite・Bright

科学的な世界観が
この一世紀のあいだにいかに変化してきたか。

かつてまとめていた手稿をリライトしてみる。

ディーン・ラディン著
『量子の宇宙でからみあう心たち』によれば
17世紀以来300年間
科学の礎となってきた世界観はすべて
20世紀の物理学者によって改訂されたとある。

21世紀には微視的世界にみられる奇妙な現象が
ごく日常的にも見られることに気づき
それを信じるに足る論拠が
次々に発見される世紀となるだろう。

超心理に向けたこうした動きは
考え方が転換するときに経験する
一連のステップを着実に乗り越えるよう
私たちに要求していると思われる。

そのステップは
第一段階で新しい考え方は
明らかに間違っているという反応を引き出し
第二段階で新しい考え方は
正しいかもしれないという恐れを誘発し
第三段階で
その考え方は当然で議論の余地がないとなる。

古典的な世界観は17世紀に
イタリアの数学ガリレオガリレイ
フランスの哲学者デカルト
イギリスの数学者(かつ錬金術師?)のニュートンによって
築き上げられた。

その方法は実験を通じて「偉大なる自然」を観察し
数学を用いてその結果を記述。
そして将来を予測するものである。

古典物理学はその後
19世紀や20世紀に
マックスウエルやアインシュタインなどの逸材によって
精緻化された。

この長らく成功をおさめてきた方法は
「ニュートン物理学」
「ニュートン=デカルト流の世界観」などと
呼ばれている。

古典物理学は5つの基本原則を仮定することで
世界をとらえている。

それらは
実在性
局所性
因果性
連続性
決定性である。

これらの原則は
絶対的な時空間の枠組みのなかにあてはめられ
物理仮定の数学的記述は
客観的な事象の挙動に対応するとみなされる。

カリフォルニア大学の物理学者 
ローゼンブルーム & クイットナーによれば
『実在は
 ともかく観測それ自体によって創造される。
 観測された実在とは
 観測者が知識を獲得することの結果なのである。
 そうだとすると
 観測者は観測システムと不可分に一体である。
 この事実は
 物理的な現実世界が自分の知覚とは独立して存在するという
 観測者の見方を揺るがす。
 この観測者一体の実在を認めたくなければ
 唯一の代替案は観測者が実験を自由に選択する能力を
 疑うことだ。』 

私たちのふるまいが何でも事前に決まっていると信じるものや
自由意志など絶対にないというものはほとんどいないだろう。

確かに私たちは
自由意志をもつようにふるまわなければならない。
自らが自らの意志で生きていないとすれば
またそのようにふるまわなければ
無能力者を宣言されてしまう。

しかし百歩譲って神経的科学者の一部が主張するように
自由意志が幻想であるとするのなら。

それでも尚私たちの個々の行為と
光子の最終的なふるまいの間には
否定しようもない関係が説明されずに残ってしまう。

何がその関係を決めるのであろうか。
この観測の問題は解決されない。

2004年に
コロンビア大学の物理学者
ブライアン・グリーンは自著のなかで
観測問題の歴史をひととおり語った後に
「70年以上も検討がつづけられているが
 可能性の波が粒子へとどのように確定しているのか
 またそれが本当に起きているのか誰も理解していない」
と結論づけている。

ローゼンブルームとクットナーをはじめとした多くの物理学者は
物理世界に影響を与えているのは
「まさしく心である」という立場には疑問を呈している。

けれども量子論の立役者のひとりである
パスクアル・ヨルダンなどは
「私たちが観測の結果をつくり出している」と主張している。

超心理実験の証拠は注意や意図のかたちで
観測が世界に影響をおよぼしていると暗示している。

量子論は以下の概念によって
その神秘的特徴を深めていった。

相補性
不確定性
観測問題
からみあい
重ね合わせ
(観測されていない物体において
 いくつかの可能な状態をとる確率が
 波のように重なり合うとされる数学的記述)

上記の概念は結局のところ
同一の問題を別の角度から表現している。

すなわち観測されていない状態で
量子的物体は時間や空間において決まった位置を占めないし
決まった性質ももたない。
(少なくとも古典的な意味での
「決まった」という言葉が適用できない)

性質もない
位置もない
ある時刻に存在もしていないものが
はたして実在といえるのだろうか?

これについてはよくわからないとされる。

けれども私たちからは独立した古典的な意味で
「そこにある」という客観的な実在の想定は
誤りであることだけはよくわかるだろう。

おそらくこの「新しい実在」がもたらした最大の効果は
古典物理学が原則としていた常識的な考えが
どれも絶対視できなくなった点にある。

私たちから独立した絶対的実在性は
チェシャ猫のようにかすんできた。
もはや観測するまでは
世界の根本的特性は決まっていないと
判明しているからである。

これは現実が存在していないということではない。
観測以前の実在が
私たちが日常経験しているものと
かなりかけ離れているということである。

以下ディーン・ラディンの著書
『量子の宇宙でからみあう心たち』より

超心理現象の理論を築くには、解決すべき3つの重要問題がある。
 
 1)常識はずれの方法で情報が時空間を伝播することの説明で
   アインシュタインも言っているが
   これは「物理学」の問題

 2)この情報が通常の感覚器官を経ずに心のなかに届くこと
   および逆に心のなかの情報が
   遠くの物体に影響を及ぼせることの説明で
   これは物理学と「神経科学」の問題

 3)心のなかに届いたその情報が
   しばしば報告できうるほど明確なかたちで
   意識に現れることの説明で
   これは神経科学と「心理学」の問題

これらの3つの問題は
どれも物理的実在の概念に密接に関連しているため
もし私たちが生きる世界の物理的媒介が
前述のような情報伝播を禁じているのであれば
唯一の合理的な結論は「超心理の報告は誤りだ」となる。
どんなに実験的証拠があっても
その見地を堅持しなくてはならないとすれば
本現象について語る場合の「超心理現象」は
どこかに誤りがあるということが唯一の合理的見解となる。

しかしながら物理的実在の本質については
前世紀までに大きく展開してきた。

それが示すところは
超心理に「誤りありき」という仮説は見込みうすく
超心理仮説は見込みありという知見であるとされる。

この議論の基礎を固めるために
物と心と超心理の関係に関する概念が
どのように展開してきたか
このことを以下のダイアグラムでディーン・ラディンは
理論展開している。(☞P.327)

<超心理と対照させた物と心の世界観の変遷>

古代
  (魔術の時代)  魂・・・・・超心理は自明
  ↓        精霊-魔術-錬金術
  ↓        超自然魔術-自然魔術
  古典
  (産業の時代)  行動主義・・超心理は不可能
  ↓        宇宙意識-信号理論
  ↓        古典的-統計的
  現代
  (情報の時代)  脳/心・・・超心理は可能
  ↓        場の理論-量子理論
  ↓        相対性-量子
  未来
  (総体の時代)  心/脳・・・超心理は必要 
  ↓        からみあう心-全体論的理論
  ↓        量子ホログラフィー-全体論



古代の代表的な実在の概念は
生き生きとしたアニミズムの世界だった。

この「魔術の時代」は数万年続き
その時代精神は「精霊」であった。

この時代では
実在には周期性があると推測され
星星の運動や季節の移り変わり
昼と夜や
生命の生死にリズムが見られたため。
実在の本質が神々の気まぐれに支配されていることも
当然と考えられた。

生き生きとした精霊は媒体なしに
少なくとも人間界で知られる原因なしに
遠くのできごとを引き起こすとも想定された。

私たちの内なる神性の芽生えは「魂」と呼ばれ
心の概念と結びつけられていた。

古代では超心理現象は
魂が精霊たちと交流する自然なかたちとして
自明なものと考えられた。

古代BC/ACの
ネイティブアメリカンのロックアートをリサーチした結果
そこには
何か大切なことを伝えようとするための情報発信基地として
自然の周期を知らせるためのカレンダー機能として
またシャーマニズムの見地からは
例えばVberVに見られるクマの手と水鳥の姿に打ちつけられる
呪術の痕跡と読み取ることもできうる
生き生きとしたシンボルが多彩に描かれている。

まさに古代の実在の概念を
現代に饒舌に語り継ぐ証しとして
深い感慨をもって撮影を行ってきた。

そのなかにOrbsと極めて似た形態が数多く
多様なエリアにみとめられることは興味深い。

かつての民はデジタルカメラなどの道具がなくとも
赤外線的視覚能力を保持して
すでに空気中に浮遊するOrbsを
読み取っていたのではないかと仮説を抱く。

またそれは
昼間の星を見ることのできる視覚力に似て
現代の私たちが失った力であるとも言えるかもしれない。

サンタフェ研究所に向かう途中の
見晴らしのよい丘からのぞむ夕焼け空の美しさに惹かれて
リサが撮影したOrbの連続写真。
カメラはCanon Power Shot 90
突然にそれは徐々に大挙して訪れた。

























この一連の撮影の後には
まったくOrbが写り込む撮影はできなくなった。

不確定な相補関係のなかに
それらはからみあい重なり合いをみせてゆくよう。

一方で
実在し局所にもあり連続している
因果性もやがて満たして両義をささえゆくものとなるだろうか。

それらとの重なり合いを
繰り返し写真を眺めながら
決定性こそのゆらぎを覚える。

新たな認知概念の書き直しがやがて訪れる日を想う。