Saturday, January 24, 2009

◎Old・New

旧暦は太陽と月のリズムを併用した太陰太陽暦。
まもなく旧暦のお正月1月1日を迎える。

太陽でわかるのは季節。
月でわかるのは日にち。

各月の一日は必ず新月で
八日前後が上弦の月。
二十三日前後が下弦の月となる。

旧暦の一年の始まりは
立春(新暦の2月4日)に近い新月の日となる。

だから立春前の新月から始まる年もあれば
立春後の新月から始まる年もあって
2009年は
1/26月曜日が新月。旧暦のお正月朔日となる。

また今年の旧暦は一年が十三ヶ月になる閏皐月がはいる。

月の12朔望は約354日。
一方太陽が地球をめぐる周期は365日なので
その差が大きくなる数年に一度(十九年に七回)
閏月を入れ手一年を十三ヶ月にすると
二つの周期のずれをうまく調整できるしかけになる。

どこに閏月が入るかは
二十四節気の中気の位置と関係するのだそうで
今年の旧暦は皐月を繰り返す。

新暦のグレゴリオ暦で絶対時間を共有する
世界中のリズムと合わせながら
旧暦のような時の相対性に合わせて
月の朔望に応じた宇宙大自然の運行にしたがって
呼吸を合わせてゆくリズムも大切にしてゆきたい。

そのような二重性のあわいに
うつろいやさざめきを感じる日々を紡ぎたい。

昨年の6月18日は赤い月が美しく
その空間にはまるでOrbと呼吸を交わすかのように
連続して多様なふるまいの写真が撮影された。

その夜Orb研究会のMoon Societyが開催されたのだった。













月の力が呼び覚ますものがあるのだろう。

月とOrbの振舞いの関連はこれまでにも触れてきたけれど
この一連の写真を通じて
この空間には自由に羽ばたく存在があるのだということを思うと
心の中が広々として自由に羽ばたけるような思いになるのは
内に自らのOrbを抱いているからなのかしら。

内なる力を呼び覚ませる新たな年となることを願う。
明日その懐の澄み渡る温りに触れる伊勢内宮へ。

Friday, January 23, 2009

◎Feng Shui

竹中工務店東京本店のギャラリーエークワッドで
世界の建築スクール展がスタートした。

Design Teaching at MITと題して
米国マサチューセッツ工科大学建築学科の
教育手法の紹介が行なわれている。

MITのキャンパスにでかけたことがある。
広々とした芝生が印象的で
中でもMIT MuseumのArthur Gansonの作品には
目を見張る哲学的な思想が込められていて
今も心に残る作品が幾つも思い出される。

そのMITの建築学部長のヤン・フー・チャンの
レクチュアを聴く機会をいただいた。

私は専門的な知識を持ち得ないが
その伸びやかで温かみあふれるレクチュア
The other projectの概念に学んだ。

プロジェクト遂行において
そのプロジェクト以外のものはすべて
もう一つのプロジェクトとして伴走しているという
考え方に幾つもの新たな
そして懐かしさを思う発想を抱いた。

中空を視るか
その周囲を視るか。

フレームを視るか。
その内外を視るか。

中心を視るか。
その外縁を視るか。

あたりまえのことのようだけれど
ついつい複眼を忘れて
凝縮した発想に囚われてしまうことがある。

世の中は可能性に満ちている。
そのようなことを
ちょっとした視点・視座・視野を
傾けたり入れ替えたりスライドさせることで
見えてくるものがあるものだ。

上海のプロジェクトの幾つかの例示があった。
懐かしく上海の街を思い出す。





この外灘と呼ばれる一帯は
租界として海外からの進出でもたらされた
欧米文化との融合から
アールデコ・ルネサンス・ゴシックなど
多様な様式の建築物が並び居る。

とりわけドームを戴いて建つ香港上海銀行は
1923年の竣工。
新古典主義建築の華麗にて壮大な建物で
「スエズ運河からベーリング海峡の間で
 最もすばらしい建築の傑作」と謳われたと言う。
1921年に地中に各国の通貨を埋めて風水師が
吉祥祈願をして建設をしたのだという。

そのような風水の力を得て建造物を建てることは
人の祈りの姿の反映であることを思う。

かつては迷信などと揶揄されることもあったけれど
よりよくあるようにと縁起を担ごうとする人間精神は
前向きな物事への取組みと
手間をかけて入念に事にあたろうとする
精神的余裕の証しなのであって
より現代では物語創造の進化した精神に思える。

1/25は旧暦の大晦日。
1/26は旧暦の新年朔日を迎える。

伊勢の美しい内宮の建造物の
御垣内参り詣でを行い
昨年の幸福への感謝と共に
新たな一年の志のご報告に出かける。

風に吹かれ
水に洗われ
いよいよ清まり実りに向かう新たな年を迎えたい。

Thursday, January 22, 2009

◎Brunch・Branch

giorniージョルニという名の新しいライフスタイル誌が
実業之日本社から今春3月に発刊されることとなって
リサが取材を受けたページをお送いただいた。

白いコットンセーターを着たリサが
朝一番にラジオ体操に自転車に乗ってでかけることや
朝食には焼きたてパンと有機野菜スープを
必ずこだわりで手料理していることなど
多彩にチャーミングに掲載してくださる予定。

一足早く春のリサの笑顔の花が咲いた印象で
うれしく拝読する。ありがとうございます。

リサの料理は天才的。
理由は幾つかあるのだけれど
リサ自身が食いしん坊のため美味しいものに実に目がない。
直感的にどこにどのような美味しいものが存在するのか
いち早く情報収集する能力と吟味には類い稀なものがある。


http://picasaweb.google.com/shirokuma/SHIROKUMABISTRO#


これまでに長い間美味しいものを渉猟して来たためか
レシピなくこだわりの素材を頭のなかで
直感的にぱぱぱっと編集構築してオリジナルクッキング。
これまでの経験から舌と手先が覚えているらしい。

味覚・触覚そして嗅覚・視覚
最終的には歯触りから生まれる聴覚も駆使して
直観から五感へブレイクダウン。

そうして緻密にテーブルコーディネートされた
リサならではのこだわりMC Planningブランチ
元麻布ビストロが出現する。

『パペットの晩餐会』を思い出す。
リサの手料理は
パペットのような超高級フランス料理とは異なるけれど
「幸福の追求」があることをいつも思う。

2年前の初秋
インデックスコミュニケーションズから初めての出版をした時
「お祝いしなくっちゃ!」と突然言い出してくれた。
「ぜったい自分でぜんぶつくる!」と断言。
100人分のお料理を一週間かけて用意し
マジェスティの屋上で中秋の名月をのぞむ
観月会のテーブルセッティングしたことが契機で
リサの特別な料理の腕が覚醒した。

「あれだけつくれば大概のことはへいっちゃら!」
リサはあっけらかんとしている。

「幸福の追求」について二人で対話をはじめた頃だった。

手間をかけることを惜しまないでできることは
幸福の追求の力があるからなのだとリサと共に話し合う。
ほんとうにありがたいことだと思う。

「だって手を抜いたら幸せな気持ちになれないもん。」

リサはそう言ってにこにこしているけれど
手を抜いて幸せを求める現代人も多いことだと
私自身も自戒の念を思うことが多い。

貴重なビジネスカンファレンスが開催されるため
サンタ・フェの街に赴いたのはちょうど一年前になる。

はじめてサンタ・フェの街に滞在して
印象深く心に響いたことは
誰もがにこやかになれる「幸福の追求」について
独自の食文化や芸術やアートが
美しく日常感覚に浸透していることだった。

リサと共にそこに数週間の滞在をした時に
いろいろな食や文化に触れて
「生きることは幸福のためにある」ことについて
ずいぶん語り合うこととなった。

そこで出会う人たちと話しをすると
その多くが旅人としてサンタ・フェに来て
あまりにもこの地が美しいことに心動かされ
そしてその地に住みたいと願って
ついに移住してきたんだという人が多いことに驚いた。

もともとサンタ・フェは
米国の数ある街のなかでも
「他のアメリカの街同様にならないように」と
計算されてつくられて来た1607年にはじまる歴史ある街。

ニューメキシコ州北部に位置し
ロッキー山脈の南端標高2000mを超える高地にある。
そのためかいつでかけても空気が澄み渡っている。
日本でいえば美ヶ原高原が同じ標高2000m。
ここにスペイン様式のプラザを中心にした
街づくりがなされてきたことで
街中の交流が活発であったのだろう。

広場のある街づくりは大切だ。
今の日本には広場で人が語りあうという
生活様式が不足しているのではないかしら。
広場といえば市場となり
そこでさまざまな文化交流がなされるのはよいことだが
お金のやりとりのためのただ経済交流だけでは
交流の文化のための精神が欠落してしまう。

何をこよなく大切にするのか。
何を途絶えないものとするのか。
あらためて目的と手段を考えなくてはならないことが
現代にはたくさん課題が潜んでいるように思える。

サンタ・フェは数あるネイティブアメリカンの部族の
なかでも母系の家族を中心としたプエブロという
大家族制であった種族の系統が中心となっている。
プエブロはスペイン人入植前より
織物の技術をもっていたという。
そのプエブロ族の建物にならって20世紀初頭から
外観をアドビ様式に統一しているサンタ・フェには
街のすみずみに至って
街の文化の暗黙の知性のルールが感じられる。







統一して塀や垣根はすべて小枝を紡いだ自然のつくり
もしくはアドビの土壁が適用されていることに気づいた時
それは街の文化度を守るための約束であることに
はっとした。





鉄のような強い素材で囲うのではなく
小枝一本一本を入念に並べて横に繊細に針金を通す垣根は
手間をかけて経糸・緯糸を編む織物のようだ。

その美意識と守り抜かれている歴史の一途な約束は
ほんとうに美しい街の香りを紡ぎ出している。

以前にもこのBlogに幾度か記したけれど
サンタ・フェではほんとうによくOrbが写る。
プエブロ族の描くモチーフにもとてもOrbの姿に似た
多様な円形が無数に描かれてある工芸品を見ることがある。

織り込まれている文様は実に興味深い。




サンタフェの街に初めて到着した時のOrb一連の記録。
晴れ渡る夜空に星が降るように
Orbが振り降りた。
この道はサンタフェトレイルの最終着地点。
聖フランシス大聖堂正面の歴史ある通り。

ようこそと招かれたようでうれしかった。





そういえば
giorniージョルニとは「日々」という意味だそう。

日々を紡ぐ。
小枝の垣根のように。
一枚一枚の布のタピストリーのように。

紡いでゆくその一本一本の織り込みの中に
小さな幸福と口福のきらめきが
どのような模様を描き出すのだろう。

Wednesday, January 21, 2009

◎History・Victory

米国時間2009年1月20日に
アメリカ第44代オバマ新大統領が誕生した。

世界中のどれだけの眼が
同時刻同空間に
そこに凛と立つその人に注がれたことだろう。

宣誓に用いられたのは
エイブラハム・リンカーン第16代大統領が
1861年の1期目の就任式で使用した聖書。

幸福のイエローカラーのスーツに身を包んだ
ミシェル・オバマ大統領夫人が
大切に紫色の布で包まれた聖書を抱えていた。

ワシントンD.C.の連邦議会議事堂前での就任式に
集った約200万人の聴衆は何を感じただろう。

宣誓後の就任演説は約20分間。

神聖なる演説だった。
現代の奇跡だと言えるのではないだろうか。

シカゴでの演説のような盛り上がりとは異なり
重く静かに現実を心で受け止め
来る未来の難関に対して共に歩むことの
約束と責任を分かち合う演説だった。

いつでもオバマ大統領は歴史の原点に立ち戻る。
そして忘れてはならない私たちの精神の原点を
呼び覚まし力を鼓舞してゆく。

スピーチライターは
27歳のホワイトハウス歴史上最年少の
ジョン・ファヴロー青年とオバマ大統領が二人で
草稿したと伝えられる。
オバマ大統領は自分の言葉をもつ人物であり
多くの示唆を必要としないというが
このスピーチの草稿はファブロー青年が
オバマ氏と共に打ち合わせを重ね
そのオバマ氏の心になりきって
スターバックスでまとめきったと伝えられるが
本当だろうか?
そのような日常の人々が生活し往来する目線で
真実を読み解こうとするリベラルなストーリーは
日本の政治家の生活感や価値観のなかからは
到底生まれそうもない。

私たち日本人は今
先達の理想に忠実でありつづけることができているだろうか?

オバマ大統領が就任演説でアメリカ国民に投げかけたことは
先達から受け継いで来た連綿と続くべき国家の伝統と
その価値だった。
我々の世代にとってもそうありつづけると
自国の偉大な歴史に敬意を表した。

就任演説を聴く内に
オバマ氏は時代に対して教化を施す
人物として登場したと
後に語られるようになるのだろうと感じた。

だれもが知る通り重大な危機にある自国に対して
その事実を就任演説であらためてひとつひとつを
掘り起こして認識を強めさせた。

イラクやアフガニスタンとの戦争状況。
自国が敵国の無責任さとどん欲さと貧困に対し
困難な選択を避け次世代への準備にも失敗しているという
自国の立場からの視点の投げかけ。

「多くの人々が家を職を失い企業も倒産した。
 健康保険制度もカネがかかりすぎ
 多くの学校(制度)も失敗した。
 毎日のようにエネルギーの使い方が敵を強め
 地球を危険に陥れている証拠も挙がっている。

 これがデータや統計が示した危機だ。
 全米で自信が失われアメリカの没落は必然で
 次の世代は多くを望めないという恐れがまん延している。」

その現実をオバマ大統領は真摯に言語として
祝祭の場で丁寧に重々しく慎重に語り継いだ。

「今日私は我々が直面している試練は現実のものだと言いたい。
 試練は数多くそして深刻なものだ。
 短期間では解決できない。
 だが知るべきなのはアメリカはいつか克服するということだ。
 この日に我々が集ったのは
 恐れではなく
 希望を選んだためで
 争いの代わりに団結を選んだからだ。」

そのようなスピーチを
今日本は語ることができるだろうか?
オバマ氏の演説が続く横顔をCNNが届ける映像を通じて
考えはじめていた。

オバマ大統領の演説内容は
アメリカ国民に向けて行なわれると同時に
明らかに世界の人々に向けて教化される内容だった。

オバマ大統領の言葉一つ一つに重ね合わせて
自らを静かに思い返し考えさせられることとなった。

今日のブログは相当長くなるけれど
その一言一言をここに尊い歴史的出来事として
忘れることがないように刻んでおきたい。

「この日我々は実行されない約束やささいな不満を終わらせ
 これまで使い果たされ
 そして政治を長いこと混乱させてきた独断などをやめる。
 それを宣言するためにやって来た。」

このような演説に触れ日本の政府はどのようなメッセージを
オバマ大統領に届けることができたのだろう?
未だその速報に触れられない。

「我々はいまだ若い国家だ。
 だが聖書の言葉を借りれば
 「幼子らしいこと」をやめる時が来た。
 我々が、不朽の精神を再確認する時がきた。
 より良い歴史を選ぶことを再確認し
 世代から世代へと受け継がれた
 高貴な理想と貴重な贈り物を引き継ぐ時が来た。
 それはすべての人々は平等、自由で
 最大限の幸福を追求する価値があるという神の約束である。」

日本の成熟の在りどころは
かつて新渡戸稲造が残した言葉の通り
「宗教のない日本がどのようにして道徳を学ぶのですか?」
その聖書に代わるものは何なのだろう?

「我が国の偉大さを再確認する時
 我々は偉大さが決して与えられたものでないことを理解する。
 自分で手に入れなければならないのだ。
 我々のこれまでの旅は近道では決してなかったし
 安易に流れるものでもなかった。
 それは心の弱い
 仕事より遊びを好み
 富と名声からの喜びのみを求める人々の道でもなかった。
 むしろリスクを選ぶ人
 実行の人
 創造の人の道だ。
 恵まれた人の場合もあるが
 多くはその仕事については知られず
 長く困難な道のりを歩み
 我々を繁栄と自由へと運んでくれた人々だ。
 我々のために
 彼らはないに等しい荷物をまとめ
 海を渡って新しい生活を探した人々だ。 
 我々のために
 彼らは額に汗して働き
 西部に住み着き
 鞭(むち)打ちに耐え
 硬い土地を耕してきた人々だ。」

米国の勤勉と勤労に値する歴史は
日本にもあった。
戦後の行動成長を担ってくれた私たちの父母祖父祖母への
私たちは感謝を失いつつないだろうか?
後期高齢者という言葉で括り保証すら約束もできない
現在の政府は
戦後復興に努めて日本を再興させてきた
諸先輩への敬意と感謝に不足していないだろうか?

「歴史の中で繰り返し
 こうした男女がもがき
 犠牲を払い
 我々がよりよい生活を送れるように苦労してきた。
 彼らは米国が我々の個人的な希望の集大成よりも
 大きい存在だと思っていた。
 生まれや富
 党派の違いより偉大だと思っていたのだ。」

私たちは日本の平和の中で
あるべき価値観を見紛っていないだろうか?

「この旅を今日我々は続けている。
 我々は今でも地上で最も繁栄し強力な国だ。
 我々の労働者は今回の危機が始まった時と同様
 生産性は高い。
 発明心に富み
 商品やサービスは
 先週、先月、昨年と同様に求められている。
 我々の能力は落ちていない。
 だが過去に固執し
 狭い利益しか守らず
 面倒な決定は後回しにする時代は終わった。
 今日からは我々は立ち上がり
 ほこりを払い
 アメリカ再建の仕事に取りかからねばならない。
 どこを見回してもすべき仕事がある。
 経済状況は大胆で迅速な行動を求めている。
 我々は新しい職場の創造だけでなく
 成長のため新しい基盤を作らねばならない。」

日本の私たちも同様に感じ考えるべき
正しい生産性を私たち一人一人が担うべき
真義が込められている。

「我々は道路や橋、電線やデジタル通信網をつくり
 我々の商業を支え
 我々の結びつきを強めなければならない。
 我々は科学を本来あるべき場所に引き戻し
 技術を活用し医療の質を引き上げると共にコストを下げる。
 太陽、風や土壌を使って我々の自動車の燃料とし工場を動かす。
 我々の学校や単科大
 大学を新たな時代の要請にあわせるようにする。
 これらすべてが我々には可能だ。
 これらすべてを我々は実行するのだ。」

未来を真剣に考慮するのなら
必ずこの途に進まなくてはならない
明確なアクションプランがここにある。
それをどのように実際に実践にブレイクダウンしてゆくか
日本も共に歩む方策がここに重なり合いを探ることが
肝要であることに気づく。
これらの未来創造のために
日本が進化している領域は多いことに気づく。

「我々の志の大きさに疑問をはさむ人もいる。
 我々のシステムでは
 大きすぎる計画は達成できないという人々だ。
 彼らは覚えていないのだ。
 彼らはすでにこの国が成し遂げたことを忘れているのだ。
 想像力が共通の目的に出会った時
 必要が勇気と出会った時
 自由な男女に達成できることを忘れているのだ。

 皮肉屋が理解できないのは
 彼らの下で大地が動いたということだ。
 我々を余りに長期間消耗させた
 使い古しの政治論議はもはや適用されない。
 今日我々が問うのは
 政府が大きすぎるか小さすぎるかではなく
 機能しているかどうかだ。
 家庭が人並みの収入を得られるよう仕事を見つけ
 威厳をもって引退できるよう助けているかどうかだ。」

人権にもとずく力強い発言と
その本質を問うことに
頷きながら米国内で静かに真剣に耳を傾ける
人々の姿も画面に映し出されていた。

「答えが「イエス」の施策は継続する。
 「ノー」の施策は廃止する。
 公金を預かる我々は
 説明責任を果たさなければならない。
 適切に支出し
 悪い習慣を改め
 誰からも見えるように業務を行う。
 それによって初めて
 国民と政府の間の重要な信頼を回復できる。」

このような発言が日本の政府内から生まれる日が
訪れるだろうか。

「市場が正しいか悪いかも
 我々にとっての問題ではない。
 富を生み出し
 自由を拡大する市場の力は比肩するものがない。
 だが今回の金融危機は
 注意深い監視がなされなければ
 市場は制御不能になり
 豊かな者のみを優遇する国は
 長く繁栄することはできないことを我々に気付かせた。
 我々の経済の成功は
 国内総生産の規模だけでなく
 繁栄が享受される範囲や
 望む人すべてに機会を広げる能力にかかってきた。
 慈善としてではなく
 公共の利益に通じる最も確実な道としてだ。」

公金を公共の利益に結びつけることは
慈善ではなく真実であるべきことを
どのように私たちは享受してくることができただろう。
当然のことが不透明性の中でわかりにくいものになる。
そして私たちは麻痺して見えなくなってゆく。
言葉をもたないものになってゆく。
そのことの懸念を持続可能な社会繁栄と結びつけて
現代の日本の政治家がどのくらい明言することが
できるのだろう。
お互いの顔色を見て負け組にならないための
勝ち組の理論ばかりが優先されることの不均衡を
どのように突破できるというのだろう。

「我々の防衛一般に関しては
 我々の理想と安全のどちらかを選ぶという
 間違った考えを拒絶する。
 建国の父らは
 想像もできないような危険に直面しながら
 法の支配と人権を確約する憲章を起草し
 それは何世代もの血で拡大されてきた。
 これらの理想はいまだに世界を照らし
 我々は方便のためにこれらをあきらめることはない。
 だから
 我々を今見ている他の民族や政府に対して言いたい。
 巨大な都市から
 私の父が生まれたような最も小さな村まで
 米国は平和で尊厳ある将来を求める
 すべての国々とすべての男女そして子どもの友人であり
 もう一度
 指導力を発揮する用意があることを知ってほしい、と。」

この世界に向けての協調の志を
どのように私たちは受け止め
お互いに手を差し伸べ対話を重ね
よりよい未来と次世代のために
共に双方の指導力を理解しあうことができるのだろう。

「先人がミサイルや戦車を使うのみならず
 信念と確固たる同盟をもって
 ファシズムや共産主義に
 勇敢に立ち向かったことを思い出そう。
 先人は軍事力だけが我々を守るのではないことや
 またそれを好き勝手に使えないことを知っていた。
 代わりに
 彼らは慎重にそれを使うことで力が増し
 安全は目的の正しさや
 他国の手本となる振る舞い
 謙虚さや自制心から発することを知っていた。」

日本はどうしても被爆国として
米国の横暴を語り継ぐが
社会教育の中で日本における
ファシズムや共産主義がもたらす脅威に対して
私自身は正式に教わったことがない。
勉強不足だったのかもしれないが
米国が共産主義の無謀な侵略に対して
安全保証の指導力をもって日本に関与していなければ
日本の経済繁栄は明らかになかったことだ。
その恩恵の一面も正しく考えなくてはならないことを
私たちは他律的な理解だけではなく
自律的に正確に学ぶ必要もあるのではないか。

「我々はこの遺産を引き継ぐ。
 これらの原理に再び導かれ解決により
 一層の努力が求められる新しい脅威に対抗できる。
 我々は責任を持ってイラクから撤退し始め
 イラク人に国を任せる。
 そしてアフガンでの平和を取り戻す。
 古くからの友人とかつての敵と共に
 核の脅威を減らすために絶えず努力し
 さらに地球の温暖化とも戦う。
 我々の生き方について言い訳はしないし
 それを断固として守る。
 無実な人々を殺したり
 脅迫で自己の目的の実現を図る者に対し告げる。
 我々の意思の方が強く
 我々の意思を曲げることはできない。
 我々の方が長く生き
 そして打ち負かす。」

「我々の多様な出自は強みであり弱みではない。
 キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒、
 そして無宗教者の国だ。
 地球上の津々浦々から来た
 あらゆる言語と文化で形作られている。
 内戦(南北戦争)や人種差別という苦い経験もしたが
 その暗い時代をへて
 我々はより強くなりきずなも深くなった。
 かつての憎しみはいずれ消え
 我々を分け隔てた壁はいずれ消える。
 世界が小さくなるにつれ
 我々が共通に持つ人類愛が出現する。
 そしてアメリカは
 平和の時代をもたらす役割を果たさねばならない。」

オバマ氏はイスラム世界との関係において
互いの利益と互いの敬意を基本として
共に歩む方法を探すと明言した。

「対立をあおったり
 国内の社会問題が生じた責任を
 西側世界に押しつけようとする指導者たちよ
 何を壊すかでなく
 何を築けるかで
 国民に評価されることを知るべきだ。」

破壊ではなく創造に向かう精神は
日本においては
諦観ではなく創造に向かう精神と置き換えて
他者の責任に押し付けるのではなく
何を築けるかということに
未来への注力を再認識しなくてはならないだろう。

「腐敗、策略、口封じで権力にしがみつく指導者たちは
 大きな歴史の過ちを犯していることを知るべきだ。
 しかしその握りこぶしをほどくならば
 我々も手を差し伸べる。」
 
「貧しい国々の人々には
 我々が一緒に汗を流すことを約束する。
 農地が豊かになり
 きれいな水が流れるようにし
 空腹を満たすとともに
 飢えた心も満たす。
 そして我々のように比較的豊かな国々は
 国外での苦しみに無関心でいたり
 影響を気にとめずに
 地球の資源を浪費はできない。
 世界は既に変革しており
 我々もそれに合わせて変わらなければならない。」

私たち日本は豊かだろうか?
豊かとは何によってはかることができるだろうか?
そのために国外の苦しみを知り
何に努めてゆくことを学ばなくてはならないだろうか?

「我々は進む道を熟慮しながらも
 今まさに
 遠く離れた砂漠や山々で警戒に当たる
 勇敢なアメリカ人たちへ
 謙虚にそして感謝の念を持ち思いをはせる。
 彼らは今日我々に教訓を与えてくれる。
 アーリントン国立墓地に眠る英雄たちと同じように。
 彼らが自由の守護者だからだけでなく
 彼らは奉仕の精神を体現し
 自分たち自身よりも偉大なものが存在し
 それに意味を見いだす人たちだからこそ
 たたえる。
 そしてこの歴史的な瞬間に
 まさにこの精神を我々がみな共有しなければいけない。」

靖国神社参拝について幾度も重ね重ねて論議される点について
私たちの正しい想像力が解決をもたらすだろう。
オバマ大統領が促す想像力は
いまや当然のことながら人が忘れかけてしまう
日本においては
あたらしくてなつかしい真実の想像力だと思う。

「政府の能力や義務は
 究極的には米国民の信念と決意が決定する。
 それは
 堤防が決壊した時に見知らぬ人をも招き入れる親切や
 友人が仕事を失うことになるよりも
 自分の労働時間を削ってでも
 仕事を分け合おうという労働者たちの無私無欲のおかげで
 最も暗い時を切り抜けることができる。
 煙に満ちた階段を駆け上がる消防士の勇気や
 子どもを育てる親たちの意志が
 最終的に我々の運命を決定付ける。
 我々の試練は新しいのかもしれない。
 それに立ち向かうための道具も
 新しいかもしれない。
 我々が成功するかどうかは
 労働と誠実さ、勇気、フェアプレー、
 忍耐、好奇心、忠誠心や愛国心にかかっている。
 古くから言われていることだ。
 だが真実だ。
 それは歴史を進歩させた静かな力だった。
 今求められているのは
 こうした真理への回帰だ。
 責任を果たすべき新たな時代だ。
 我々米国人一人ひとりが
 自分自身や国家や世界に義務を負っていることを認識し
 こうした義務を嫌々ではなく
 喜んで受け入れることだ。
 私たちにとって
 困難な仕事に全力で立ち向かうことほど
 自らの性格を定義し
 精神をみたすものはない。」

今も昔もかわらない普遍不朽の真実について
オバマ氏の教化は私たち日本人に向けても
尊い教えだと私は思う。

「これが市民であることの代償と約束だ。
 これが私たちの自信の源泉だ。
 神が未知の運命を自らの手で形作るよう
 我々に求めたものだ。」

自らの『責任』について考えさせられる。

「なぜ男性も女性も子供たちも
 どのような人種
 宗教の人々も
 こうして就任式に集まることができるのか。
 なぜ約60年前なら地元のレストランで
 給仕されなかった可能性のある男の息子が
 こうして皆さんの前で宣誓式に臨むことができるのか。
 これこそが
 我々の自由
 我々の信条の意味なのだ。

 我々が誰なのか
 我々がどれほど遠くまで旅してきたか。
 今日という日を
 それを記憶に刻む日にしよう。」

オバマ大統領は無私の立場であることを
あらためて認識させられる。
彼は自分がということではなく
自分と言う存在を一つの喩えとして
今そこに立ち
これからの未来に対する
一つのチャレンジとして
公約に向かおうとするものなのだ。
この「無私の奉仕」について
日本ではどうしても
実践的社会道徳の学びの機会が不足する。
私たちがオバマ氏にその存在に注目することが
オバマ氏という美しい現象であることに
時代のチャンスを感じる。
オバマ氏も自らの運命を時代の契機として
そのように受け止めているのではないか。
だからこそ大いなる過去の魂から
力を得ようとしているのではないかと
祈りに近い聖なる姿勢を感じさせられる。

「アメリカ建国の年
 最も寒かった時
 愛国者たちは氷で覆われた川岸で
 たき火のそばに寄り添い合った。
 首都は見捨てられ
 敵は進軍し
 雪は血で染まった。
 独立革命が本当に実現するか不確かな時
 建国の父たちは
 この言葉をきちんと読むよう求めたのだ。

 『未来の世界に語られるようにしよう。
  厳寒の中で希望と美徳だけが生き残った時
  共通の脅威にさらされた国や地方が前に進み
  それに立ち向かうと』。

 アメリカよ。
 共通の脅威に直面した非常に困難なこの冬に
 これら永遠の言葉を忘れないでいよう。
 希望と美徳をもって
 この氷のような冷たい流れに勇敢に立ち向かおう。
 そしてどんな嵐が来ようとも耐えよう。

 将来我々の子孫に言われるようにしよう。
 試練にさらされた時に
 我々は旅を終わらせることを拒み
 たじろぐことも
 後戻りすることもしなかったということを。
 我々は地平線と注がれる神の愛を見つめ
 自由という偉大な贈り物を前に送り出し
 それを次世代に無事に届けたのだということを。」

なぜ生きるのか。

オバマ新大統領は「恐れ」ではなく
恐れに対する挑戦を「愛」をもってのぞむことを
宣言しているのだと気づく。

歴史への愛。
人民への愛。
家族への愛。
国家への愛。

その愛をどこで培ってきたのかというとき
オバマ氏はその出自からも
けっして家庭的な愛に恵まれた環境で
育った訳ではないだろう。
けれども愛を学び愛を体現することで
自らの人生に勝利している
その姿に歴史が必ず味方をすることを
共にあることを想像するようにと人の心を動かす。

あらゆる境界線を超えて
あらたな意識に目覚めている
あらたな開明の存在の登場にいよいよ学びたいと願う。







ニースにて。
勝利の女神の祝福があることを。

Monday, January 19, 2009

◎Change・Challenge

変化と挑戦について考える。
チェンジとチャレンジと。

間もなく米国の新大統領に就任するオバマ氏の動向も
いよいよカウントダウン。
人々の現代社会への失望が多大であるほどに
新大統領に寄せられる期待は大きいといわれる。

そのような報じ方が米国内外でされることは無論のこと。
この100年に一度の大恐慌といわれる
多難なグローバル経済環境において
オバマ新大統領の存在がどのような意味をもたらしているのか
これまでの地球上の歴史になかったことが起きようとしている
その新たな時代の幕開けを前に
どうしてもわからないことがある。

このような時機
日本のメディアがどのような報じ方をしているのか知りたくて
新聞ではなく久しぶりにテレビを見た。
しばらくはほとんどテレビを見ないでいた。
だから驚く程にメディアリテラシーの不足を感じた。

それは不遜な言い方かもしれないけれど
一聴視者として呆れたことがある。

久しぶりに見るテレビの中の人々には
パブリックスピーキング(公的発言)と
プライベイトートーク(私的発言)の境界線が
まったく無くなっている。

自覚的にそのようにされているのだろうか?

私がアナウンサーの勉強をした時代には
ありえなかったはずの禁じ手の話し方が横行している。

例えばオバマ氏に関する報道について
ニュースは事実情報のみを伝えるものだが
いわゆるニュースショーとなると
情報をネットワークするキャスターや
そこに招かれた専門家のゲストコメントは
「たいへんな時代を担うオバマさんには
 ぜひ頑張って欲しいですね。」の一様な言葉が
締め言葉になっている。これには驚いた。

どういうことだろう?

オバマさんに頑張ってもらうのではなくて
私たちが新しい時代を迎える米国に対して
どのようなまなざしを向けようとするのか
私たちがこの時代に何をどのように考えるのかを
論じるのがメディアではないだろうか。

「オバマさんには頑張ってほしい。」

それは街頭インタビューの一般の人の意見の扱いだ。
進行台本がそのようになっているのだろうか。
まるで時間の隙間や空間を
どうにか埋めなくてはならないかのように
意味のない言葉でつくろうかのように聞こえる。

「米国はたいへんな難局に立たされています」
「オバマさんには期待が寄せられています」
「しかしまだこれから実際に執務にあたってから
 しばらく景気動向の様子を見てみないと
 オバマさん人気の真価ははかれませんね」
そのようなコメントが公共放送を通じて公然と語られている。
あまりにも浅いのではないか?

問いたいのは時代の中での意義や意味や
それにまつわる日米関係や
グローバル経済についての学びではないのか?

ひいては
「おばま市ではオバマ氏を応援。
祝賀会で盛り上がっています」と明るく笑いに
あふれた話題がニュースを席巻する。
オバマさんに「日本のおばま市を知っていますか?」と問い
「知っている」と答えたということが
それほどのトップニュースなのだろうか?

言葉だけを耳にしていても公共放送で語られる言語として
パブリックスピーキングにふさわしくない
「・・だと思います」「・・してほしいですね」
「・・はまだわかりませんね」「・・かもしれませんね」
実に根拠のない曖昧かつ無責任な発言が続く。

その様相の不可解さに画面の話し手の様子を見てみると
計算しつくされた着飾った海外ブランドファッションで
テレビ映りを意識した表情と姿勢と言葉の抑揚。

これでは現代の窮乏については語れないだろう。

実のない虚像が展開している。

真摯さに欠ける虚像は国会中継も同様で
そのような風潮が日本のメディアを
すっかり麻痺させているのだろうか。

国会中継はもっぱらラジオでしか聴かないけれど
文脈を冷静に聴いていると
質問と回答がかみあっていない。
そのことすら無視した稚拙なやりとりがなされていて
無為さに悲しみを思う。
分別ある大人の対話はどこにいったのだろう?
ここでもパブリックスピーキングは存在せず
保身のためのプライベイトトークに終始している。

如何に責任逃れをしてつじつまを合わせるか
そのことへの文脈に力が注がれて
互いの足のひっぱりあいによって
共創や協業による未来創造に対する配慮には
まったく欠けるパワーゲームに終始してしまう。

それは無責任という言葉で括ることができるだろう。

のぞましいことは
「 事実は・・・ということであります。
  このことにより・・・を・・することにより
よりよい・・・が・・・により明らかでありますので
  ・・・による改善を図り・・までに・・をお約束します」
という実証と実践こそが国民への約束ではないのか?

「やってみなくちゃわからない。
 だってこれまで誰も何も言わなかったじゃないですか。
 だからやりますよ。」では無謀も甚だしい。

最終的にそのような緩慢なる対応が問題となった際には
その言い逃れと無責任さが
「だって国民が選んだ政治なのです」という
究極の言葉で締めくくられる。
現代の政治はほんとうに国民が選んだ政治なのだろうか。

国会議員のまわりにマイクが何本も立てられて番記者さんが
いくつものカセットテープレコーダーを用意して
議員の一言一言の取材を行なうのは過去からの風習だろう。
けれどそこで語られている言葉に
現代果たしてどのような意味があるのか。

「いまはなにもいえませんね」という
含み笑いをしながら議員バッチをつけた人が話すその一言を
どれだけの人たちが待ち望んでいるというのか?

「いまはなにも確かなことをお応えできず
 国民の皆様にはご心配をおかけいたしております。
 力不足で申し訳ございません。最善を尽くしまして
 早急に答えを示させていただきます」という姿勢と言動が
責任ある行為のはずだ。

こうしたメディアとの接点を
例えば毎日テレビで見ているとすると
よほど自覚をもって客観的に批評力を伴わない限りは
メディアの真実を嗅ぎ取る感覚も麻痺するのではないか。

恐らくメディアリテラシーそのものを
国際レベルでみたなら
日本は相当知的に低い位置にあるだろう。
計算されてそのようにしているのだろうか。

昨年末ニューヨークで日本のメディアニューヨーク支社の
社長とお話させていただいたとき
日本とアメリカのジャーナリズムの違いは何でしょうと伺った。
答えは「インテリジェンス」その一言だったことが
思い起こされる。

いずれにしても今のメディアは大切なことには一切触れていない。
皆が責任回避の言葉を探り操り
ある一定以上の風潮が生まれると一斉に横ならびで
一様の情報を無事に扱う。

また一方でニュースがショーとなり
現実がエンターテインメント化されていくと
飾り立てる見せ方聴かせ方の脚色に
細心の注意を払わなくてはならない。

情報が創られてゆく過程で都合良く切り落とされたり
余計にクローズアップされてしまう事実があることは
かつてレポーターの仕事をしていたときに切実に感じた。
人は情報を目の前にすると
その多角的な見方を伝達することで
伝わりにくくなる事を恐れる。
そのためにある一面を切り取り
分かりやすく伝わる判断をして
ディレクションを決定するほうが
ドラマティックになり
情報価値が評価されることを知ってしまっているのだ。

それにより見抜くべき本質が見失われることがある。
本質を欠いた先には
どのような未来が創り出されることになるのだろう。

久しぶりに見たテレビで
あまりにも
米国新大統領の横顔と
日本の首相の横顔の人相が異なるので
30歳代はじめの友人とそのようなことを話していたら
興味深いことを教えてくれた。

「だって私たち知らないんですもん。
 いい政治家がどういう人なのか見たこともないし
 物心ついた頃には不況の最中だったし
 いい時代とかがあったらしいことも知らないし。
 政治なんてこんなもんだと思ってる。
 税金とられるのはやだけど別に関心もないですよね。
 オバマさんの演説だって
 何がすごいのか何が評価されるのか
 見ていてもわからない。
 それが無知っていうものなんですよね。きっと。」

そのように言って笑っていた。

そうなのかもしれない。

現代は忙しすぎる。
皆不足に思う何かを変えようとして
個々にチャレンジ精神を旺盛にして
あらゆることに挑戦しようと情報化社会のなかで
次から次へと新しい情報を消費してゆく。
社会に対する信頼の置き所がなくなれば
皆人間不信に陥って自己都合を信じざるを得なくなる。

そうしてそのなかから積み上がってゆくこと。
その人自身が関心を持てることに注力して
その人なりにエキスパートになる領域ができて
その挑戦が変化となり成長となってゆくのだろう。

そうすると社会性は欠如してゆくかもしれないけれど
個人力は高まってゆくことになるだろう。

そうしてほんとうに人と人がつながらなくては
孤立してしまうということに真に気づいた時
はじめて人と人はつながりあい
助け合い深め合う関係が生まれてゆく互恵社会への
一歩が始まるのだろう。

でなければ
ただ「・・してほしい」「・・してくれない」と
人任せに他人の力を頼るだけでは個人力は高まらない。
自己責任を持たなくては社会参画はできないのだから。

米国では聖書のもとに
神との対話を通じて自律と互助の約束が交わされている。
そこで心の涵養がなされてゆく。

日本ではどうだろう。
心の涵養を何に置くのか。

共に大きな挑戦を分かち合うとすれば
共に大きな変化を生み出すこともできるのが
人間だ。

米国は今皮肉にも経済破綻のおかげで
物や金の価値を追うだけでではない
本質的な人間志向に溢れて
人種や年齢を超えた自由平等社会の本質的可能性を探り
あらたな国家創造に向かおうとしている。

日本の未来はいかがか。

本質的な社会格差を
高い水準の社会保障で補っている北欧で
人々が皆
満足度高い生活を送っていると意思表示するように
透明性ある社会が実現したならすばらしいのだけれど。

北欧は常にソ連からの侵略の危機にさいなまれていた。


真摯な対話を通じて
無駄をはぶき
真実を語り
人々が真に幸福な人生を
感謝と共に満足できる社会を創造する。

そのためには
一度危機的状況に瀕して
原点に戻り
社会との契約についての希求を見つめる
そのようなことから変化と挑戦がはじまるのだろう。

心を静かに諸事考えを巡らす時機。
対話ができる友に感謝を思う。

Orbの取組みもそのような意味で考えれば
日々のチャレンジだと感じる。
ただ何かのチェンジの到来のおとづれを感じて
日々データをまとめてみている。

物理のエントロピーの法則によれば
ものはじっとそこに凝固したままであることはなく
必ず形あるものは散逸してゆく宿命にあるという。

であればどのように変化ーチェンジしてゆくかということが
重要だ。そこに挑戦ーチャレンジという自らの意志や
他者との交流を通じて得られる社会性のなかで
よりよくあろうと志す自律精神と自己責任が含まれるかどうかに
変化の様相もまた変化するのではないか。

セドナの聖なる山ごしに満月をのぞむ一連の写真。
この山は赤い人・黒い人・白い人・黄色い人を誕生させた
人類の原初の地であるという言い伝えがあるそうだ。

期せずして満月の美しさを追いかけて連続撮影するうちに
次々に写り込んできたOrbの振舞いの変化に
それまでにない新たな未知への挑戦がかき立てられた。











「なぜだろう?」
「どうしてだろう?」
「なんなのだろう?」
「どうするとどうなるのだろう?」
「どのような意味がもたらされるのだろう?」

人として
ちょっとした変化も見逃さない見過ごさない。

そのような変化の根本理由の仮説を抱き
実証と共によりよい未来創造への実践に向かう
そのような志を見失わない人生でありたいと思う。

Sunday, January 18, 2009

◎Hi-tech・Hi-touch

Orbについて六本木ヒルズのライブラリートークで
昨年2008年11月10日にお披露目した際に
ご参加くださったレイライン研究家の内田一成さんが
長野放送のテレビ番組に出演されたDVDをお送くださった。

さっそく拝見する。

GPSの最先端技術で位置の特定をした
日本国内の神社や民間の信仰に厚い地蔵尊や遺跡を
その後地図上にデジタルマッピングをしてみると
それぞれに一直線に並んだり五芒星の形を成しており
夏至や冬至の太陽の運行と
見事に重なり合う発見をされている。

一直線上に歴史的建造物が並ぶという
レイラインの存在については
昨年Orbカンファレンスのために出向いた際に
イギリス国内からヨーロッパ全土に広がる教会の並びも
同様であると学んだ。





但し、それがどのような意味を持つのかについては
考古学の対象になりづらいらしく結論を得ない。

そこにエネルギーに満ちた大地の気脈が走っていて
その流れに応じて建築物をきっちりと配置されていったという
研究結果を正統には認めない向きもあるようだ。

見えないものをどのように実証してゆくか。

内田さんのご研究では
夏至の日の出・冬至の日の入りのラインに乗っている
神社の鳥居の構造を証すのに
ハイテクのGPSを使用して
埋設されている土地の記憶を呼び覚ます。

太陽の運行と共に装置化されているその場で
真直ぐに差し込む太陽光に頬を染めて
目を輝かす人たちの表情は
互いにその感動を分かち合う
ハイタッチな印象だった。

知が心をどのように満たすかということが
どれだけ大切なことなのか
最新の科学最先端技術を駆使したハイテックが
細心の認知や触感を鼓舞してゆくハイタッチの契機となる
そのことに興味がある。

ネイティブアメリカンの聖地であるセドナでは
ある発見をした。
大地の中に自然と精神が邂逅する装置化がなされている。



クッチーナという名の幸福を呼ぶ女神を見立てた
左手のロックモニュメント。
その向い側のロックテーブルは
昔からエネルギースポットとして尊ばれて来た
場所の記憶がある。
そのエネルギーの磁力は実際にその場にあって
身体性の感覚で実感できるものだ。
その地はボルテックスと名付けられ
大地から地球内部のエネルギーが噴出しているとされる場所。
そこにたたずめば大自然のエネルギーを獲得できるという。
確かに身体感覚がその地を経て
しなやかに研ぎ澄まされたように思う。
とりわけ磁場的感覚が目覚めるようになった。

同じような身体の記憶として
英国のストーンヘンジも同様のパワーを感じるものだった。

東に日の出をのぞむ。

東から太陽を背に西に向かいストーンヘンジ全貌をのぞむ。

中央に太陽を数千年受光しつづけている巨石が存在する。

こちらは西から全貌をのぞむ。
巨石の上には一点
日本の神道の考え方でもある
依代(よりしろ)のような尖り石が付置されている。

北側からのぞむと時の経過と共に巨石の間を光がうつりゆく。


ストーンヘンジは紀元前3000年を超える
悠久の歴史を抱く古代遺跡と想定されている。


もともとは円形のととのった配置に巨石がぐるりと
並べられていたというが現在の石の付置を見るとまるで鳥居のよう。

結界を造りその中に神聖なる装置を配置することが集合意識となる
ルーツのことを考える。

未だ蒼空の色の夜明け前。
東をのぞむ。
太陽が巨石中央から昇り来る。
そしてその光に照射されつつ
ふとその光の届く真西を振り返ると
巨大な一枚板がすっくとそこに立ち
思えば5000年という時空を重ねて
日々朝日を受光し続けているのだ。

未だこのストーンヘンジがどのような目的で
創られたのかは結論がつかないという。

ただ身体感覚としてその場にあると
不思議と実にしなやかに
一つ一つの筋肉の動きが柔らかくなってゆくことを実感した。
大地に身体が驚く程柔らかく曲がり接地できるようになる
不思議を体験した。
石に触れることで
柔らかなハイタッチを得られるということは
どういうことなのだろう。
それは伊勢神宮の宇治橋を渡るときの感覚
そしてマチュピチュのインカ帝国の遺跡に在るときの感覚に
とても似ていると
かつて味わったことのある身体感覚の記憶が呼び起こされた。

そしてまたこの地の陽気に満ちたその場の記憶が
あらたに身体のすみずみにまで刻まれたのだった。

雨の日でもそれは飛びまわるエネルギーであるのか
この地の警備員の人たちは
その地に光の玉が飛び交うのを日常茶飯事のように
確認しているのだという。
それをパワーの源だと考える人たちもいる。


目に見えるものと見えないものと。
見えなくても身体で感受するものと感受できないものと。

この地がレイライン上に位置するということも
明確にハイテクで分析されるのだという。
その一方でハイタッチな発見や想像が連綿と続くことが
遺跡を豊かな創造物としていることに気づかされる。

それにしても
その遺跡を美しい芝で囲み現代に保存している方法
セドナの庭で植生に水を与えるためにあえて小枝のような
散水栓を張り巡らしている心ある方法には
その土地の環境を守り抜き次世代に豊かな伝承をする
ハイタッチとなるハイテックをもまた確認できるものだ。

自然にあるままの繊細なる美的感覚を保持する
隠された装置化。
そこにある知と心が交差している幸福を
目を凝らしてみつめていると心躍る。