変化と挑戦について考える。
チェンジとチャレンジと。
間もなく米国の新大統領に就任するオバマ氏の動向も
いよいよカウントダウン。
人々の現代社会への失望が多大であるほどに
新大統領に寄せられる期待は大きいといわれる。
そのような報じ方が米国内外でされることは無論のこと。
この100年に一度の大恐慌といわれる
多難なグローバル経済環境において
オバマ新大統領の存在がどのような意味をもたらしているのか
これまでの地球上の歴史になかったことが起きようとしている
その新たな時代の幕開けを前に
どうしてもわからないことがある。
このような時機
日本のメディアがどのような報じ方をしているのか知りたくて
新聞ではなく久しぶりにテレビを見た。
しばらくはほとんどテレビを見ないでいた。
だから驚く程にメディアリテラシーの不足を感じた。
それは不遜な言い方かもしれないけれど
一聴視者として呆れたことがある。
久しぶりに見るテレビの中の人々には
パブリックスピーキング(公的発言)と
プライベイトートーク(私的発言)の境界線が
まったく無くなっている。
自覚的にそのようにされているのだろうか?
私がアナウンサーの勉強をした時代には
ありえなかったはずの禁じ手の話し方が横行している。
例えばオバマ氏に関する報道について
ニュースは事実情報のみを伝えるものだが
いわゆるニュースショーとなると
情報をネットワークするキャスターや
そこに招かれた専門家のゲストコメントは
「たいへんな時代を担うオバマさんには
ぜひ頑張って欲しいですね。」の一様な言葉が
締め言葉になっている。これには驚いた。
どういうことだろう?
オバマさんに頑張ってもらうのではなくて
私たちが新しい時代を迎える米国に対して
どのようなまなざしを向けようとするのか
私たちがこの時代に何をどのように考えるのかを
論じるのがメディアではないだろうか。
「オバマさんには頑張ってほしい。」
それは街頭インタビューの一般の人の意見の扱いだ。
進行台本がそのようになっているのだろうか。
まるで時間の隙間や空間を
どうにか埋めなくてはならないかのように
意味のない言葉でつくろうかのように聞こえる。
「米国はたいへんな難局に立たされています」
「オバマさんには期待が寄せられています」
「しかしまだこれから実際に執務にあたってから
しばらく景気動向の様子を見てみないと
オバマさん人気の真価ははかれませんね」
そのようなコメントが公共放送を通じて公然と語られている。
あまりにも浅いのではないか?
問いたいのは時代の中での意義や意味や
それにまつわる日米関係や
グローバル経済についての学びではないのか?
ひいては
「おばま市ではオバマ氏を応援。
祝賀会で盛り上がっています」と明るく笑いに
あふれた話題がニュースを席巻する。
オバマさんに「日本のおばま市を知っていますか?」と問い
「知っている」と答えたということが
それほどのトップニュースなのだろうか?
言葉だけを耳にしていても公共放送で語られる言語として
パブリックスピーキングにふさわしくない
「・・だと思います」「・・してほしいですね」
「・・はまだわかりませんね」「・・かもしれませんね」
実に根拠のない曖昧かつ無責任な発言が続く。
その様相の不可解さに画面の話し手の様子を見てみると
計算しつくされた着飾った海外ブランドファッションで
テレビ映りを意識した表情と姿勢と言葉の抑揚。
これでは現代の窮乏については語れないだろう。
実のない虚像が展開している。
真摯さに欠ける虚像は国会中継も同様で
そのような風潮が日本のメディアを
すっかり麻痺させているのだろうか。
国会中継はもっぱらラジオでしか聴かないけれど
文脈を冷静に聴いていると
質問と回答がかみあっていない。
そのことすら無視した稚拙なやりとりがなされていて
無為さに悲しみを思う。
分別ある大人の対話はどこにいったのだろう?
ここでもパブリックスピーキングは存在せず
保身のためのプライベイトトークに終始している。
如何に責任逃れをしてつじつまを合わせるか
そのことへの文脈に力が注がれて
互いの足のひっぱりあいによって
共創や協業による未来創造に対する配慮には
まったく欠けるパワーゲームに終始してしまう。
それは無責任という言葉で括ることができるだろう。
のぞましいことは
「 事実は・・・ということであります。
このことにより・・・を・・することにより
よりよい・・・が・・・により明らかでありますので
・・・による改善を図り・・までに・・をお約束します」
という実証と実践こそが国民への約束ではないのか?
「やってみなくちゃわからない。
だってこれまで誰も何も言わなかったじゃないですか。
だからやりますよ。」では無謀も甚だしい。
最終的にそのような緩慢なる対応が問題となった際には
その言い逃れと無責任さが
「だって国民が選んだ政治なのです」という
究極の言葉で締めくくられる。
現代の政治はほんとうに国民が選んだ政治なのだろうか。
国会議員のまわりにマイクが何本も立てられて番記者さんが
いくつものカセットテープレコーダーを用意して
議員の一言一言の取材を行なうのは過去からの風習だろう。
けれどそこで語られている言葉に
現代果たしてどのような意味があるのか。
「いまはなにもいえませんね」という
含み笑いをしながら議員バッチをつけた人が話すその一言を
どれだけの人たちが待ち望んでいるというのか?
「いまはなにも確かなことをお応えできず
国民の皆様にはご心配をおかけいたしております。
力不足で申し訳ございません。最善を尽くしまして
早急に答えを示させていただきます」という姿勢と言動が
責任ある行為のはずだ。
こうしたメディアとの接点を
例えば毎日テレビで見ているとすると
よほど自覚をもって客観的に批評力を伴わない限りは
メディアの真実を嗅ぎ取る感覚も麻痺するのではないか。
恐らくメディアリテラシーそのものを
国際レベルでみたなら
日本は相当知的に低い位置にあるだろう。
計算されてそのようにしているのだろうか。
昨年末ニューヨークで日本のメディアニューヨーク支社の
社長とお話させていただいたとき
日本とアメリカのジャーナリズムの違いは何でしょうと伺った。
答えは「インテリジェンス」その一言だったことが
思い起こされる。
いずれにしても今のメディアは大切なことには一切触れていない。
皆が責任回避の言葉を探り操り
ある一定以上の風潮が生まれると一斉に横ならびで
一様の情報を無事に扱う。
また一方でニュースがショーとなり
現実がエンターテインメント化されていくと
飾り立てる見せ方聴かせ方の脚色に
細心の注意を払わなくてはならない。
情報が創られてゆく過程で都合良く切り落とされたり
余計にクローズアップされてしまう事実があることは
かつてレポーターの仕事をしていたときに切実に感じた。
人は情報を目の前にすると
その多角的な見方を伝達することで
伝わりにくくなる事を恐れる。
そのためにある一面を切り取り
分かりやすく伝わる判断をして
ディレクションを決定するほうが
ドラマティックになり
情報価値が評価されることを知ってしまっているのだ。
それにより見抜くべき本質が見失われることがある。
本質を欠いた先には
どのような未来が創り出されることになるのだろう。
久しぶりに見たテレビで
あまりにも
米国新大統領の横顔と
日本の首相の横顔の人相が異なるので
30歳代はじめの友人とそのようなことを話していたら
興味深いことを教えてくれた。
「だって私たち知らないんですもん。
いい政治家がどういう人なのか見たこともないし
物心ついた頃には不況の最中だったし
いい時代とかがあったらしいことも知らないし。
政治なんてこんなもんだと思ってる。
税金とられるのはやだけど別に関心もないですよね。
オバマさんの演説だって
何がすごいのか何が評価されるのか
見ていてもわからない。
それが無知っていうものなんですよね。きっと。」
そのように言って笑っていた。
そうなのかもしれない。
現代は忙しすぎる。
皆不足に思う何かを変えようとして
個々にチャレンジ精神を旺盛にして
あらゆることに挑戦しようと情報化社会のなかで
次から次へと新しい情報を消費してゆく。
社会に対する信頼の置き所がなくなれば
皆人間不信に陥って自己都合を信じざるを得なくなる。
そうしてそのなかから積み上がってゆくこと。
その人自身が関心を持てることに注力して
その人なりにエキスパートになる領域ができて
その挑戦が変化となり成長となってゆくのだろう。
そうすると社会性は欠如してゆくかもしれないけれど
個人力は高まってゆくことになるだろう。
そうしてほんとうに人と人がつながらなくては
孤立してしまうということに真に気づいた時
はじめて人と人はつながりあい
助け合い深め合う関係が生まれてゆく互恵社会への
一歩が始まるのだろう。
でなければ
ただ「・・してほしい」「・・してくれない」と
人任せに他人の力を頼るだけでは個人力は高まらない。
自己責任を持たなくては社会参画はできないのだから。
米国では聖書のもとに
神との対話を通じて自律と互助の約束が交わされている。
そこで心の涵養がなされてゆく。
日本ではどうだろう。
心の涵養を何に置くのか。
共に大きな挑戦を分かち合うとすれば
共に大きな変化を生み出すこともできるのが
人間だ。
米国は今皮肉にも経済破綻のおかげで
物や金の価値を追うだけでではない
本質的な人間志向に溢れて
人種や年齢を超えた自由平等社会の本質的可能性を探り
あらたな国家創造に向かおうとしている。
日本の未来はいかがか。
本質的な社会格差を
高い水準の社会保障で補っている北欧で
人々が皆
満足度高い生活を送っていると意思表示するように
透明性ある社会が実現したならすばらしいのだけれど。
北欧は常にソ連からの侵略の危機にさいなまれていた。
真摯な対話を通じて
無駄をはぶき
真実を語り
人々が真に幸福な人生を
感謝と共に満足できる社会を創造する。
そのためには
一度危機的状況に瀕して
原点に戻り
社会との契約についての希求を見つめる
そのようなことから変化と挑戦がはじまるのだろう。
心を静かに諸事考えを巡らす時機。
対話ができる友に感謝を思う。
Orbの取組みもそのような意味で考えれば
日々のチャレンジだと感じる。
ただ何かのチェンジの到来のおとづれを感じて
日々データをまとめてみている。
物理のエントロピーの法則によれば
ものはじっとそこに凝固したままであることはなく
必ず形あるものは散逸してゆく宿命にあるという。
であればどのように変化ーチェンジしてゆくかということが
重要だ。そこに挑戦ーチャレンジという自らの意志や
他者との交流を通じて得られる社会性のなかで
よりよくあろうと志す自律精神と自己責任が含まれるかどうかに
変化の様相もまた変化するのではないか。
セドナの聖なる山ごしに満月をのぞむ一連の写真。
この山は赤い人・黒い人・白い人・黄色い人を誕生させた
人類の原初の地であるという言い伝えがあるそうだ。
期せずして満月の美しさを追いかけて連続撮影するうちに
次々に写り込んできたOrbの振舞いの変化に
それまでにない新たな未知への挑戦がかき立てられた。





「なぜだろう?」
「どうしてだろう?」
「なんなのだろう?」
「どうするとどうなるのだろう?」
「どのような意味がもたらされるのだろう?」
人として
ちょっとした変化も見逃さない見過ごさない。
そのような変化の根本理由の仮説を抱き
実証と共によりよい未来創造への実践に向かう
そのような志を見失わない人生でありたいと思う。